第1章

2/23
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/23ページ
 君が呼んでいる。  柔らかい風に乗った花びらを追いかけ、僕に手を伸ばす。  僕は手を取り、君を抱きしめた。  その温もりだけが、僕の守りたいもの。  その笑顔だけが、僕の全て。  その日も空は穏やかだった。  柔らかい温もりが、冷たい風を追いやる日も近い。木々の間から見える空には季節の移ろいを感じさせる光があった。  人に忘れられた小さな社。それが僕の住処だった。人の願いによって生まれ、人の手によって生かされた僕が、人の心からいなくなる。それは、存在の消滅を意味している。  だけど、まだ消えはしない。まだ僕を覚えている人がいる。彼女の存在だけが、僕をこの世界に留めている唯一のものだ。  もうすぐ彼女がやって来る。軽く息を切らせて、階段を登って来る。ほら、見えた。  「おはようございます、守り神様。今日は少し暖かいですね。」  「おはよう。気持ちのいい朝ですね。」  彼女に、僕の声は届かない。姿も見えてはいない。それでも話しかけずにはいられない。  「…ふふ。」  時折こうやって、何かに気づいたように笑いかけてくれるから。  彼女はいつものように、社を清める。落ち葉を集め、固く絞った布で社を拭く。それから、水と塩と米を供え、手を合わせる。  「守り神様。あと少しですが、どうかよろしくお願いします。」  「ええ、分かっていますよ。」  僕が答えると、彼女は満足そうに笑って立ち上がる。そして、社のすぐ横の桜の木を見上げた。柔らかい風がそよそよと、彼女の髪を揺らした。  「もうすぐ咲きそう。つぼみが膨らんでいるわ。」  「そうだね。楽しみです。」  長い時がこの身を過ぎる。その中で季節の移ろいだけが繰り返し、僕を楽しませてくれる。  草花が咲き、枯れていく様。空気の温度。空の高さ。  「それじゃあ、また。」  「ああ、いっておいで。」  去っていく彼女の背中を見送る。  鳥が鳴き、草木が風に音を立てる。聞こえるのはそれだけになった。  僕はこの地の守り神としてここで生まれた。悪しきモノを人の暮らす場所へ入れない為の、神々が坐す神域を悪しきモノから守る為の、結界の存在として。古い時の中では多くの人間が毎日のように訪れ、僕に平安を祈っていた。名を呼ぶ者の数は、神の力の大きさだ。かつて僕は大きな力を持つ神であった。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!