未定

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未定

ひらり、ひらり。 花びらがそよ風に音もなく散っていく。 その街を見守るかのように、樹木は立っていた。 なだらかな緑色の丘の上に一本だけ、誰が植えたのか知らないその桜の木。 そこに彼女が待っている。 彼は丘の登りながら駆けた。穏やかな風が妙に暖かい。彼の着ていたワイシャツが僅かに汗ばんでいた。そして、彼の目に映ったのは。 彼女だ。 彼は確信した。 桜の木の下。舞い散る花びらの中で、彼女が立っている。 自分の姿を認めると彼女は笑い、そして言った。 「おかえりなさい」 「……ただいま」 そう言った途端、彼女が彼の胸に飛びついくる。精一杯抱き合った。 「……長い間、待たせてすまなかった。約束を果たそう」 「……嬉しい」 そして二人は手をつなぐと、一緒に丘を下りて行った。 都内にある一軒家。 家の前の掃き掃除を終わらせて、少し丸まった腰を軽く叩きながら、時田サエは果てしなく広がる青空にかすかに目を細めた。冬が終わり、春が訪れていた。 朝起きる度に寒さで強張っていた体も少しずつほぐれていく。 箒とちりとりを片付けたあとは、玄関の前にある郵便ポストの中身を確認する。それが彼女の日課だった。 中を覗けば、葉書が投函されている。 「あら、これは―――」 サエは玄関を開けると、夫の名を呼びながら入っていった 「聡一さん」 葉書を手にサエが夫の名を呼ぶ。若かった頃の大きく逞しい背中は今では少し痩せて小さく見える。テーブルの上に彼女が用意した新聞に目を通すのが夫・時田聡一の昔から変わらない日課だった。 新聞を読むのに夢中なのか、すっかり耳が遠くなってしまったのか、聡一はサエの声に反応しない。 (……この人は昔から、こうだったわね) 結婚してから、半世紀。子を授かり、成人した子もすでに新しい家庭を築いている。孫の誕生の便りがこちらに届いたのは6年前。葉書には小学校の入学式を迎えたことが記されていた。 よいしょ、と言いながらサエは聡一と向かい合うようにテーブルにつく。それに気づいたらしい。聡一がゆっくり顔をあげる。 「聡一さん、これ、届いてましたよ」 サエが彼に葉書を差し出した。彼は手に取ると、まじまじと見つめた。 「……ずいぶん可愛らしい子だねぇ。この子は誰だい?」 「あなたの孫ですよ。今年、小学生になったんですって」 「そうか……とうとう孫が生まれたんだな……」
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