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老人が去っても俺は動けなかった。
ベンチにどっかと腰を落として見るともなく池を眺める。
日が落ちて桜がライトアップされ、蓮の葉が闇に隠れる頃、俺はスマホを取り出して一本の電話をかけた。
「お疲れさまです、坂東です。いま大丈夫ですか?」
「あっ、坂東さん。湯島天神と明正堂はどうでしたか? いいネタ浮かびました?」
編集の武原さんの声はいつもと変わらない。
日常との落差に軽くめまいがする。
「……素敵な話を聞きました」
「坂東さん、どうしました? 泣いてます?」
「どんな話なのかプロットに落として、いえ、書いたら武原さんに送ります。はじめて書くジャンルだし書きたい話だし、俺が書き切れたと思ったら、送ります」
「わかりました。いつまででもお待ちします。坂東さんが納得いくまで書いてください。困ったことがあったら相談してくださいね?」
「説明もなしですみません。でも、タイトルは決まってるんです」
「教えてもらえますか?」
小汚いジジイを、一人の女性を愛し続けた男の話を思い出す。
目の前の池を見つめて、去年の秋の池を、五十年前の夏の池を思い浮かべる。
「タイトルは──」
不忍池のほとりで、伴侶を偲ぶ男の物語。
「しのびしのべず、しのばずの、お池のほとりの──
──『しのばずエレジイ』」
(了》
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