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 八月、上野恩賜(おんし)公園の不忍池のほとりにある瀟洒(しょうしゃ)な建物が人で賑わう。  昭和四十二年にはすでに老舗だった西洋料理店・上野精養軒は、夏の盛りの庭園に卓を置く。  庶民にはまだ聞き慣れぬ「ビアガーデン」は、物珍しさと手頃な価格もあいまって、上野恩賜公園の夏の名物となっていた。 「ずいぶん長い御手水(おちょうず)でしたね」 「昨日ちッとばかり飲み過ぎちまってな」 「あら、そうなのですか? 今日は私とのデートですのに」 「店をやってっといろいろ付き合いもあるンだよ」  三十歳過ぎだろうか、べらんめえ口調の男はぽりぽり頬をかく。  ピンと背筋が伸びた女性は、口元に手をあててクスクスと笑った。 「そういうことにしておきましょう。でも、女性を一人で待たせるなんてよろしくなくてよ?」 「はいはい、次ァ気をつけるよ。おい兄ちゃん、麦酒をひと瓶」 「ボウイさん、ビールは二瓶お願いします。それと、この腸詰めの盛り合わせもいただけるかしら?」  日よけのハットを傾けて微笑む女性に、ボウイはかしこまりましたと一礼する。  気取ってやがると男はふてくされ、それを見た女性は仕方のない人ね、と笑った。 「こういうのはお嫌いなのかしら?」 「あァ、好きにゃあなれねェな。料理も麦酒もうまいんだけどなあ」 「嫌いなことこそやってみるものですよ? 好きなことだけやってたら、新しい学びはないでしょう?」  子供に諭すように、女性は男に言った。  だからもっと楽しみましょう、せっかくのデートなのですから、と。 「けッ、みんなお高くとまりやがって、なんだか落ち着かねえや」  男はこの日のために新調した一張羅の背広をいじる。  ほらほら汚れるでしょうと、女性はそっと男の手を取った。
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