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「忍、忍べず、不忍の……私、また」  言葉がきっかけになったのか。  女性は目を丸くして──瞳に絶望を浮かべた。  まるで、自分がいまどこにいるのかようやく気づいた、かのように。 「ごめんなさい。ごめんなさいあなた、ああ、手がこんなにつめたく、手は板前の命なのに」 「いいんだ、ンなこと気にすンじゃねえ。お前が見つかってよかった」  ぽん、と、男は優しく女性の手の甲を叩いた。  節くれだった男の手を、皺だらけの女性の手がさする。 「これじゃ私、もうあなたのお店には立てないわね」 「なに言ってンだ、冬はふぐにあんこう、今年も忙しくなンだぞ? 終わりゃすぐ花見だ。祭りはこれからじゃねえか」 「夏のお祭り、精養軒のビアガーデンは、なくなってしまいましたものね」  男の話を聞きながら、老女は池の向こう側をぼんやり見つめた。  暗い木々の奥に、かつての瀟洒な建物はない。  つられ、男も目をやって、ぼそりと呟いた。 「もう、店ァ閉めるか」 「なに言ってるの。あなたが始めたあなたの城よ。私がいなくったって続けてちょうだい」 「けどよ」 「私、施設に入るわ。だからあなたはお店を続けて。一国一城の主なんでしょう?」  重なる四つの手の上に、ポタリと一滴涙が落ちる。  手を離して、男は女性を抱きしめた。 「すまねえ。すまねえ」  うわ言のように繰り返す。  女性は背筋を伸ばしたまま、そっと背中をさする。  励ますように。  別れを惜しむように。 「私が先に死んでも、クヨクヨしないでね。偲んじゃダメよ、ここは不忍(しのばず)だもの」  不忍の、池のほとりのベンチで。  老女は泣きながら笑った。
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