0人が本棚に入れています
本棚に追加
「忍、忍べず、不忍の……私、また」
言葉がきっかけになったのか。
女性は目を丸くして──瞳に絶望を浮かべた。
まるで、自分がいまどこにいるのかようやく気づいた、かのように。
「ごめんなさい。ごめんなさいあなた、ああ、手がこんなにつめたく、手は板前の命なのに」
「いいんだ、ンなこと気にすンじゃねえ。お前が見つかってよかった」
ぽん、と、男は優しく女性の手の甲を叩いた。
節くれだった男の手を、皺だらけの女性の手がさする。
「これじゃ私、もうあなたのお店には立てないわね」
「なに言ってンだ、冬はふぐにあんこう、今年も忙しくなンだぞ? 終わりゃすぐ花見だ。祭りはこれからじゃねえか」
「夏のお祭り、精養軒のビアガーデンは、なくなってしまいましたものね」
男の話を聞きながら、老女は池の向こう側をぼんやり見つめた。
暗い木々の奥に、かつての瀟洒な建物はない。
つられ、男も目をやって、ぼそりと呟いた。
「もう、店ァ閉めるか」
「なに言ってるの。あなたが始めたあなたの城よ。私がいなくったって続けてちょうだい」
「けどよ」
「私、施設に入るわ。だからあなたはお店を続けて。一国一城の主なんでしょう?」
重なる四つの手の上に、ポタリと一滴涙が落ちる。
手を離して、男は女性を抱きしめた。
「すまねえ。すまねえ」
うわ言のように繰り返す。
女性は背筋を伸ばしたまま、そっと背中をさする。
励ますように。
別れを惜しむように。
「私が先に死んでも、クヨクヨしないでね。偲んじゃダメよ、ここは不忍だもの」
不忍の、池のほとりのベンチで。
老女は泣きながら笑った。
最初のコメントを投稿しよう!