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【4】
四月、上野公園は桜の時期だ。
賑わう園内にあって、池のほとりは静かだった。
小汚いジジイから聞いたのは、とある男の半生だ。
一人の女性を愛した、男の。
「寂しくなりますね。二人でやってきたお店を閉めて……二人にとっては帰る場所、家みたいなものだったんじゃないですか?」
「はっ、わかってねェな兄ちゃん。店は店だよ。俺にとっちゃ家は」
ジジイは言葉の途中で口をつぐむ。
家は──。
続かなかったその先は、たぶん、俺にもわかる。
「あれ、でも奥様は『クヨクヨするな』っておっしゃったんじゃ」
「はっ、ここは『忍、忍べず、不忍池』だぞ? ここじゃ偲べねえんだよ」
池を、薄緑に芽吹き始めた蓮を見つめて、ジジイは言った。
ああ、ああ。
だから。
寒くないように新聞を敷いて。
満開の桜に目もくれず蓮を見て。
池を渡る風で頬が赤くなるほどの長い時間、座り込んで。
「俺ももうすぐアイツんとこ行くしな。あんまり待たせちゃまた怒られちまう」
「『ずいぶん長い御手水でしたね』ですか?」
「おう、わかってンじゃねェか兄ちゃん」
よっこらせっと声を出して、老人が立ち上がる。
「じゃあな、兄ちゃん。俺が閉める前に、次ァ店に遊びに来いよ」
俺は何も言えずに、ただ深く腰を折って見送る。
姿勢を戻すと、老人は背中を向けたままヒラヒラと手を振った。
池のほとりの、ベンチに向かって。
きっと、寂しげな笑みを口に浮かべて。
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