第1章 あの朝の光

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 しかし実際、この世で確実なものなどあるのだろうか?最初から「知る」ことなど出来るのだろうか?  時刻は午後六時。九月だからまだそれほど、暗くはなかった。部屋に西日が射している。本当は電気を点けたって良いのだけれど、これは昔からの癖で、日が完全に没するまではいつも明かりを点けなかった。唯一テレビの光だけが眩く、部屋を曖昧に色とりどりに染めては、喚き散らし、うるさい。しかしもう眠くって、電源を落とすのも面倒に、そのまま窓に目を向け、夕暮れ空をじっと見つめる。  視界の隅に入った桜の木は、青く繁っていた。それが、もう直ぐ色を変えることを俺は知っている。幼いころ、家族と住んでいたアパートの近くにも、桜の木が生えていたからだ。ずっと見てきた。みんな居なくなって、大人になり、一人で暮らすようになっても未だ桜はつきまとう。  思い出そうとすると、不思議なことに、そこにある青い葉がみるみるうちに色を変えていくような気がした。鮮やかだけど退廃的な黄色、やがて力を無くし、落ちていく。 秋は吐息とともに去るように静かに逝った。  その日。  冬至。  『慈しみ方』という本を見つけた。  幾つだったかはわからないけれど、五十を超えた今、思い出そうとしても、その頃の記憶が輪郭を無くしてぼやりと朝霞めいてるフシを見るに、きっと、とても昔の記憶に違いない。  もうほとんど一人遊びは尽くしてしまったので、仕方なく小さな家を探検した。どの部屋も真っ赤に染まっていたような気がするのは、多分、あれが夕方で、すっかり夕陽に照らされていたからだ。  和室の畳は、黒いシミでいたるところ汚れていた。当時、俺には「慈」という言葉の読みや意味が分からなかった。数年後、「人にはそれぞれの個性があります。慈愛をもって、接しましょう」という文を読んだ時、ようやくその意味を知ることになる。  父が語るに、『慈しみ方』は母のものだったらしい。母から直接「慈」を渡してもらったわけではないのに、あの言葉の意味はこういうことだったのかと理解したその日、初めてあの人から命以外の特別な贈り物、「慈愛」を頂いたような気がした。  けれど本当のところ、誰かに教えてもらわないでもしないと、母は慈しみ方を知ることすら出来ない女性だったのだ。  わからな、かった。  果たして最初から確かだと知ることのできる人間などいるのだろうか。
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