第1章 あの朝の光

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 少なくとも母は違った。自分の子だから愛せると思った。だけどどうしても無理だった。体温三十七度、一メートルの半分ほどしかない全身真っ赤の生命を、きっと愛せると思っていたのに、でもダメだった。確かなものなど母の世界にはなかった。笑ってしまうくらい、仕方のないことだった。  「もう無理」と俺に名をつけた母は出て行った。父は塞ぎ込み、姉はたいそう悲しんだ。そしてそのうちぐれた。しばらくすると、飼っていた犬が死んだ。あまりに早すぎる死に、俺もかなり落ち込んだ。何度も手を合わせたが犬は帰ってこなかった。ついでに姉も帰らなくなった。  母が居なくなった後の世界など自分には想像がつかなかった。というより、想像するのにも、疲れていた。姉が居なくなってもまだ狭い家で、「これはもう、俺にはどうしても普通になるのは「無理」なのか」と堪忍したとき、しかし異常が起きる。  塞ぎ込んでいた父がいきなり社会復帰したのだ。宗教ではない。単純に、働く喜びをまた一度取り戻し、それと同時に賜った給料を俺に与え出した。  記憶力の悪い俺でもこれは覚えている。十四の夏、部屋の中で死んだように腕を下ろしていた俺の部屋の襖が勢いよく開き、転がるように父が入り込んできた。ゆっくり起き上がって父を見下ろすと、彼の手には、当時流行っていた音楽プレーヤーがあった。ウォークマンを俺の手に握らせた父の手は真っ黒に日焼けしていて、それは、父が一所懸命に働いてきた証だった。『お前にやる』と言った手に、自分の手が包まれていることを自覚すれば、もうすっかり忘れたと思っていた涙が溢れそうになった。  覚えている。  姉が帰らなくなって、二年後の出来事だった。  俺の世界がもう一度、始まりだした瞬間だ。  テレビのキャスターは、児童虐待を行った母親をまだ罵倒している。俺は彼に「そうだよなぁ、そうだよなぁ」と適当に相槌を打ちながら、チャンネルを変える。そこでは特別番組が放映されていて、画面の左端の方に「巨匠・綾瀬広樹(あやせひろき) 追悼」という文字が浮かんでいた。やけに猫背気味の男が椅子に座っている。その青年は表情がないことで有名だったけれど、目に涙が滲んでいるような気がした。  
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