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 「九ノ瀬くん?ちょっと、九ノ瀬くん?」  パーカーのフードをちょいちょいと引っ張られる感触と名前を呼ばれる声で僕は深い眠りから目を覚ました。  まだ眠く目が完全に開ききらないし頭を預けていた腕も痺れているけれど、なんとか声が降って来た方向に首を向けた。   「おはよう。九ノ瀬くんさっき一時間丸々爆睡してたよ」  苦笑いしながら起こしてくれたのはなんと後ろの席の春屋さんだった。   春屋栞。彼女は同じクラスの女の子だ。詳しいことはまったく分からないけれど、「かわいい」「いい子」と上々の評判だ。  そこまで仲も良くない彼女がわざわざ起こしてくれたことに驚いて、眠気は半分以上吹っ飛んだ。  「えっ、まじか。確かに先生が喋ってた記憶全然無いな。起こしてくれてありがとう」 「どういたしまして。全然気にしなくていいよ」いや、でもさぁ、と彼女は笑顔で続けた。 「九ノ瀬くんの姿勢すごかったよ。両腕組んで突っ伏して『ザ・寝てる人』って感じだったもん?この席じゃなかったら絶対バレてたよ」  春屋さんはいかにも珍しい、というふうに目を普段よりも大きく開いていた。僕、そんなにひどい寝方をしてたのか。  「柱に感謝しなきゃだね」  僕のひとつ前の席はなぜか壁から柱がせり出していて、見事に先生の死角になるのだ。  春屋さんが口を開いてなにか続けようとしたところでちょうど次の二時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。    ───春屋栞。  席替えをして春屋さんの前の席になって一週間かそこら経ったけれど、なんだかんだ言って彼女と喋ったのはこれが最初だったと思う。  放っておいても全く問題のない人をわざわざ起こしてくれるとは。  文化祭も体育祭も終わったのにクラス全員の名前と顔を一致させられないような人間の僕からしたら驚きだ。  そして僕は、そんな春屋さんに迷惑をかけないようにするべくなんとか授業中寝ずに持ちこたえた。
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