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「よっ……と!」
意識が歩くことに向くと、嫌でも掛け声がでてしまう。まだ、だれもいない本殿を前に文一郎は、大きく背を伸ばす。バキバキと音をたてる肩と背中は、年相応であると共に、なんとも情けない。
文一郎は、可愛い孫たちが来たら、肩でも叩いて貰おうと、密かに考える。
手水舎は、チョロチョロと控えめに水が流れ出ている。文一郎は、形式的に水を柄杓で少量とり、手を湿らす程度に洗った。
手水鉢の中は、ピンク色の花弁がユラユラと数枚、泳いでいる。
隣に佇む一本のソメイヨシノから、降り立った花弁達だ。幹も立派で存在感を露にしているそれは、艶やかに花を咲かせている。
文一郎は、毎年、この時期に孫達と花見に来ているが今年も良い咲きっぷりで、顔を綻ばした。
これなら孫達も喜ぶと、じじ馬鹿な顔を晒して、賽銭を投げ入れると自分の主に腰の健康を願った。最後に軽く一礼をして、用は済んだと言わんばかりに、来た道を振り返りもせず戻っていく。
誰もいなくなったはずの本殿は、チョロチョロと手水舎から出る音だけが響いている。その音が、桜の美しさと合間って神々しいような、不気味なような、不思議な空気を醸し出す。
何も無かった本殿の影から、スッと一つの小さな影が伸びる。
「……」
影は、文一郎が参道を降りていくのをじっと見守っていたが、文一郎は、そのまま気付かずに歩き続けていた。
楠穂神社を囲む鎮守の森の楠がカサカサと音をたてたのは、きっと風のせいでは無い。それでも、文一郎は、振り返ることもなく、ひたすらに階段を降り続けていた。
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