もうひとつの契約書…

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もうひとつの契約書…

旧約聖書では有名な物語 『ノアの方舟』だ。 しかし、何故神はノアと契約を交わすのか? 夫婦やツガイだけを舟に乗せる、言動はナチスと変わらない、謎が多いこの話。 今、現代の模様にも似ているから少し怖くなってしまう。都合良く解釈すれば、信じる者は救われるだろう。 だがグリムやアンデルセン、その他の童話というものと何ら変わりない。 モノの例えではあるが、既に不可能だからだ。これに似た建造物ではピラミッドもまた然り。やはり、この世に人が現れる前には人以外が存在していたに違いないと思う。 だけど、それらを神と呼ぶにはバカげて居る。全て結果論を照らし合わせれば正統性の様な錯覚に捉えられる予知とも読めるノストラダムスの予言も然り。何故この様な語りべでしか事実を明確に語れないのだろう?この歴史はずっと繰り返すからなのか?失敗の繰り返しをする人ならば悲しい定めだが、教訓と言う言葉が生まれた理由も知ってみたい。 教訓の前に反省出来ていない人は、昔から変わらない、よって失敗の歴史は続く。 怒らず、愛想笑いでもして平和そうに暮らして居れば神は救ってくれるのだろうか? 祈りなさい…そう強制する。 何故命令されなければいけないのか? 人だからか?神は偉いのか? 懺悔をさせて祈らせる、反省という文字は聖書には新旧でも載っていない。 反省させたくはないからか? 反省した事を教訓としてしまえば、失敗はもう起こさない、それをさせない為だろう。 人を子羊と呼ぶくらいなのだから… 羊には羊なりの生き方を、バカにはバカなりに生きていけば良い。 我々人は、何処からか来た者でこの地球は監獄として住み、囚人としての役目で生きてきたのなら話は別だが。 いつ起こるかわからない、次の大洪水には我々囚人のバカの方舟を造る時が来るだろう… 紀元前後033年の静かな草原で。
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