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彼はいつも、夕方、カフェが閉まる直前まで、一生懸命に書き綴っている。
その姿を、コーヒーを静かに注ぎながら眺めるのが、好きだった。
左手にコーヒー、右手はスラスラと滑るように動くシャーペン、夕焼けに照らされながら書く横顔。
密かに、気になっていたんだと思う。
「あの、お客様。そろそろ、よろしいでしょうか。」
私と同じ頃に始めたアルバイトの女性が、彼に声をかけたので、彼は帰り支度をしだした。
私はアルバイトの女性が去るのを確認して、そーっと彼に近づき、話しかけた。
「今日も小説、書かれてるんですか?」
「うん。今日はなんだかはかどったよ。」
「もうすぐ締め切りですもんね。コンテスト。」
「ああ。あと、エンディングかな。」
彼は黒い鞄に筆記用具をしまうと、軽く手を振って、静かに夕焼けに溶け込んでいった。
書きっぱなしの、開きっぱなしの小説を置いて。
「棚橋さん。今日もあのお方、本を置いて行ったんですか。」
「…はい。」
「いい加減、迷惑ですよね。夕方にしか来ないのに、席を取っておいて。
昼間には混むんですから、あの本を避けただけでもスムーズになるんじゃないですかね。」
アルバイトの女性の言葉に、私は無言で頷く。
でも、せめて、コンテストが終わるまでは、あの本はあの場所に置いておきたい。
彼は、いつも真剣で、誠実な人なのだから。
…でも。
『あの本の中身を見ることも、あの本を閉じてしまうことも、しないでほしい。』
最初に来た日、彼はそう告げて、帰って行った。
気になるけれど、見てはいけない。
本を閉じては駄目なのも、謎だ。
思えば彼は、秘密主義で、なんとなく他の人と違う雰囲気を持っていた。
「とにかく、今度はあの方に話してみましょうよ。ねえ、棚橋さん。」
「…そうですね。」
彼が毎日このカフェに来て、謎を残して帰って行くのが、いつも楽しみではあった。
できることなら、彼はずっとこのカフェで小説を書き続けてほしい。
密かな私の願いは、今日も夕闇の空に吸い込まれていった。
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