行動の男 晋作

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 少し話は戻りますが、将軍家茂が朝廷に呼ばれ京都にやってきたのは、朝廷とある取り決めを交わす為でした。  その約束は「攘夷決行日を決めよ」と、幕府は朝廷から迫られていたのです。  時の天皇、孝明天皇は大の異人嫌いでした。「異人など幕府と諸藩で蹴散らせてしまえばよいのだ!」  こう迫られても、幕府側からすれば、ペリーからの圧力外交にビビりまくっていたので、返事をうやむやに纏めてしまいたい。  形だけの約束を交わした幕府は。 「どうせ日取りを決めたところで、実行にうつせる藩があるわけも無い」  と、たかをくくり、「攘夷決行日は文久三年五月十日とする」との約束を交わしていたのでした。  この幕府と朝廷の条約が予定されていたから、晋作の「よぉ!征夷大将軍!」のかけ声があったのです。  その、文久三年五月十日・・・「攘夷」つまり外国人攻撃を実行してしまった藩があったのです。  今や敵無し、行け行けドンドン状態の長州藩でした。  下関に砲台を築き、関門海峡(当時は馬関海峡)を行く外国船に砲撃を加えまくったのです。  
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