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万蔵は、とにかく世の中の医者という医者を信用していなかったが、特にこの柏木周庵という医者は、様々な意味で胡散臭い。
回向院で、焼け出されてきた人々の火傷や怪我の手当てを無償で行っていたのに感じ入った、この長屋の地主の両国屋が率先して請け人となり、取りあえず自分の家作の長屋に住まわせたのだということだが、それ以前のことがよく分からないのだ。
江戸へ出てくるなり火事に遭い、手形も寺請証文も何もかもを失ったということになっているらしい。だが、しっかりとした請け人さえあれば、いくらでも新たな人別を作って江戸に住み着くことが可能なのだ。大火の後の混乱はある意味、素性を偽り、人別をでっち上げるのに最適な時期とも言えた。
「……どうしなすった?」
手にしていた本を懐にねじ込むと、切れ長の目を柔和に細めて周庵は、やや取り澄ました様子で言った。
若い頃には随分女を泣かしたろうと思わせる端正な顔には日焼けが染みついており、年の頃は判然としないが、一見した限りではただの小柄で大人しそうな年寄りにしか見えない。
だが、幼い頃に母を亡くし、祖母に育てられた万蔵は、年寄りというものをよく知っている。皆、白髪頭と杖に騙されているのだろうが、実際にはもっとずっと若いはずだ。
この寒空に、古袷をぺらりと素袷に着て、半ば白い総髪を無造作に結わえたその風体は、全く医者らしくない。
狭い部屋の中はがらんとしていて、薬箱だの薬研だのといった、医者の家なら必ずあって然るべき物も、何一つとしてない。部屋の片隅に、一升徳利が一つ置いてあるのが目に付くだけだ。
(ちくしょう。必ず化けの皮をひん剥いてやるからな)
万蔵は、全く凄みのきかない円らな目を、可能な限り眇めて周庵を睨み付けてやった。
「どうした。怪我をしているようには見えないが……」
「用があるのは、俺じゃあねえ」
ぶすりと言った万蔵の後ろから、もう一人男が出てきて、その場に這いつくばった。
※素袷……襦袢などの下着を着けずに着物を着ること。
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