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「き…傷薬持ってくるから、待ってろ!」
慌ててそいつの上から飛び退き、絞り出すようになんとかそれだけ叫ぶと、俺は部屋を飛び出した。
血相を変えて廊下を走り抜けて行く俺に、両親や親戚の奴らは一様に驚いた顔をしていたが、俺は構うことなく居間に置いてあった救急箱を引っ掴み、再び奥の部屋に駆け戻った。
だがその時にはもうあいつの姿はなかった。
残っていたのは、おざなりにまとめられたタオルと、それに隠されるように見えた畳の上の赤い染み。あれは俺の精液と一緒に流れ出たあいつの血だ。畳にこすった跡があるのは、なんとか拭き取ろうとした証拠だろうか。
俺は消えたあいつの姿を追って外へ飛び出した。
弔問客の姿はまだまばらに残っていたが、あいつはいない。受付に行って芳名帳も見たが、名前はなかった。というかそこで改めて気付いて俺は愕然としたんだ。
そもそも俺はあいつの名前を知らなかった。
ミズキというのが、あだ名なのか本名なのか。本名だとしても、それが苗字なのか下の名前なのかさえ知らない。
俺はあいつのことを何も知らない。
何も知らないまま傷つけた。
唯一、兄貴が俺に譲らなかった宝物だったのに。
俺はそれを粉々に破壊したんだ。
残ったのは苦い記憶と、兄貴の宝物を傷つけてしまったという事実だけ。
初めて俺は取り返しのつかないことをしたのだという、その事実に気付いた。
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