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どこかから、女の甲高い声がもれてきておれの前を通り過ぎていった。蛍光灯に守られた室内はうさんくさいほど明るいのに、高い窓の外は塗りつぶしたように黒くて、落ち着かない。
突然だまったおれを、警官はじっと待っていた。無言に言葉をうながされて、それでも口を開かないでいると、警官はわざとらしくため息をついて、パイプ椅子を鳴らして立った。ひょろりと伸びた背格好もおじさんによく似てるのだと、おれはそこでようやく気づいた。ちょっと休憩しよう、十分たったら戻ってくると背を向けて離れていく背中の曲がる角度が、そっくりだった。
あの後、おじさんを突き飛ばして逃げて逃げて、人ごみの隙間にまぎれたあと、おじさんはどうしたんだろう。こんな背中で帰ったのだろうか。大勢の人に囲まれながらひとりで、はしゃぐ大学生や、やけくそのOLやらにもみくちゃにされながら、怒っていただろうか。嘆いていたのだろうか。五年も育てた、金にならない甥に突然裏切られて、どんな思いで
腹の奥からわるいものが逆流して、胃から溢れそうになる。
「吐きそう」
先に出てきた言葉は運良く出ていく直前の警官に拾われて、は? え? まて、まてまてトイレこっちとおれは迅速に腕をつかまれ立たせられ、ついでに顎もあげさせられて暗い男子トイレの個室に放りこまれた。ぽっかりひらいた便座に抱きつくようにして顔をさげると水まきホースにでもなったかのようにスムーズに絶え間なくゲロがでてきて、ちょっと笑えた。
不思議なことに気持ち悪くなくて、口から勝手にじゃーじゃー出る黄土色の液に、排尿に似た爽快感まで覚えつつそれでも喉はヒリヒリするし、ふだんと逆向きに動いてる筋肉は悲鳴をあげるしで、ようやく落ち着いた時には疲労感が綿布団のようにじっとりとのしかかっていた。
おい大丈夫かあ、とどうでもよさそうな声が頭の上からふってきた。なんとかレバーを押して、きたないゲロがキレイな水に押し流されていくのを眺めながら、しびれた脳であいだかうえだかを返した。なんで吐くまで飲むかねぇ、胃酸に焼かれてない若い声は少しだけ労りが混じっていて、いもしない兄のようで、なんだか涙が出そうになった。
「ゴミが流れちゃまずいと思って」
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