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家電はすべて、十夜にあげることにした。こっちの都合での引っ越しだし、学生の身には、たとえ新生活セットの安いやつでも痛い出費だろうし、古くなっていたけれど、十夜も就職したら新しいのを買うだろう。
幸い、条件のいい物件が見つかって、とんとん拍子に転居の準備は進んでいった。セットで買った皿を分け、タオルを分け、自室の荷物を段ボールに詰める。仕事でも引き継ぎ資料を作ったり、あいさつ回りに出かけたり、送迎会に顔を出したりと、慌ただしい日々をなんとかこなして、あっという間に引っ越し当日になった。
「じゃあ、これで」
搬出が終わって、がらんどうになった自室を軽く掃除して、最後に私物が残っていないかチェックして、ぼくはちいさなリュックひとつで玄関に立った。
「わるいけど、鍵の引き渡し頼むな」
引っ越し先の都合で、十夜の方が後に出ることになっていた。なにもないぼくの部屋ほどではないけれど、十夜の部屋もそれなりに片付いてきている。
十夜は黙ってうなづいた。いつも少ない口数はさらに少なくなっていたけれど、だけど、取り乱す様子も、ましてや涙ぐむ様子もなかった。安心するような、少しだけ、ちょっとだけ悔しいような、そんな気持ちを押し込める。もう関係ないことだ。
「なんか手伝えることあったら言ってな」
その言葉に、十夜はすこしだけ表情を動かした。
「おれより、自分の体の心配してください」
仕事も忙しい上に、引っ越しもなんて、最近、ほとんど休んでないじゃないですか。
かすかに眉をしかめる十夜は、本当に優しいと思う。やさしい子だ。ぼくとは大違い。
「ありがと」
「気を付けて」
そうしてぼくは、五年ちょっと住んだマンションを後にした。三月にしては寒い午後で、かたい枝先の桜のつぼみが、北風に大きくなびいていた。
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