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週一回の西条先生のレッスンの日、私は熱があった。それでも死にものぐるいで先生のマンションに着くと、既に途切れ途切れのピアノの音が聞こえた。インターホンを押す。
「はーいはーい、どうぞー」
いつまで経ってもなれない緊張を背負い、マンションの独特の匂いを感じながら、ドアノブを回す。
「失礼します。」
部屋に入ると、まだ小学三年生の理恵ちゃんが泣きながら、先生に喝をいれられていた。私はところどころ穴が開いたソファーに腰掛け、楽譜を見て順番を待っていた。
「あと一週間でコンクール本番だから、1日八時間は練習しなさいよ。」
半ば強制的に理恵ちゃんに言いつけると、理恵ちゃんは黄色のセーターで涙を拭いながら、はい、と、返事をした。
「ありがとうございました」
理恵ちゃんの小さな小さな背中を見送って、私の番が来る。
「よろしくお願いします」
「はい、バッハのシンフォニアだったね、」
練習どおり、練習どおり、間違えないように、ただそれだけを意識して、弾いた。だけど、自分に余裕がなくて、もっと音色とか、こだわらなきゃいけないのに、やっぱり今回も怒られるな、と思った。
「あのね、機械が弾いているのとは違うのよ。血の気がない。もっと感情いれなさい。」
出だしの、シの音を先生が首を縦に振るまで、こだわってみる。心で弾く。何回も同じ音ばかり弾いていると、傍から見れば滑稽だ。
「あのね、そういう練習を家でするべきよ。三井所くんはあんたの10倍はこだわってるよ。」
また三井所くんの話か、とうんざりしてしまった。三井所くんは私の同級生で、同じ西条先生にピアノを習っている。そして、未だに私のことを名前で読んでくれないことも悲しかった。私だって、塾や英会話で忙しい中で、一生懸命頑張ってる。精一杯やっている。けど、先生の前ではなかなか練習どうりにいかない。やっぱり努力不足なのか・・・熱で心も弱っているのかもしれない。楽譜が滲んで見えてきて、ヤバいと思い、切り替えた。
真っ暗な夜の中、お父さんの赤い車に乗り込むと、
「お疲れ様」と言いながら、三ツ矢サイダーを手渡されて、思わず涙が出そうになった。いや、泣いてしまった。コンクールまであと一週間。でも、あと一週間すれば全てが解放される。頑張ろう。
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