プロローグ

4/4
前へ
/4ページ
次へ
週一回の西条先生のレッスンの日、私は熱があった。それでも死にものぐるいで先生のマンションに着くと、既に途切れ途切れのピアノの音が聞こえた。インターホンを押す。 「はーいはーい、どうぞー」 いつまで経ってもなれない緊張を背負い、マンションの独特の匂いを感じながら、ドアノブを回す。 「失礼します。」 部屋に入ると、まだ小学三年生の理恵ちゃんが泣きながら、先生に喝をいれられていた。私はところどころ穴が開いたソファーに腰掛け、楽譜を見て順番を待っていた。 「あと一週間でコンクール本番だから、1日八時間は練習しなさいよ。」 半ば強制的に理恵ちゃんに言いつけると、理恵ちゃんは黄色のセーターで涙を拭いながら、はい、と、返事をした。 「ありがとうございました」 理恵ちゃんの小さな小さな背中を見送って、私の番が来る。 「よろしくお願いします」 「はい、バッハのシンフォニアだったね、」 練習どおり、練習どおり、間違えないように、ただそれだけを意識して、弾いた。だけど、自分に余裕がなくて、もっと音色とか、こだわらなきゃいけないのに、やっぱり今回も怒られるな、と思った。 「あのね、機械が弾いているのとは違うのよ。血の気がない。もっと感情いれなさい。」 出だしの、シの音を先生が首を縦に振るまで、こだわってみる。心で弾く。何回も同じ音ばかり弾いていると、傍から見れば滑稽だ。 「あのね、そういう練習を家でするべきよ。三井所くんはあんたの10倍はこだわってるよ。」 また三井所くんの話か、とうんざりしてしまった。三井所くんは私の同級生で、同じ西条先生にピアノを習っている。そして、未だに私のことを名前で読んでくれないことも悲しかった。私だって、塾や英会話で忙しい中で、一生懸命頑張ってる。精一杯やっている。けど、先生の前ではなかなか練習どうりにいかない。やっぱり努力不足なのか・・・熱で心も弱っているのかもしれない。楽譜が滲んで見えてきて、ヤバいと思い、切り替えた。 真っ暗な夜の中、お父さんの赤い車に乗り込むと、 「お疲れ様」と言いながら、三ツ矢サイダーを手渡されて、思わず涙が出そうになった。いや、泣いてしまった。コンクールまであと一週間。でも、あと一週間すれば全てが解放される。頑張ろう。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加