家族の一冊

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その息子が生まれたのは三十年以上も前だ。 その息子のために書き上げた一冊の本。 自ら物語を考え、絵を描き、印刷所に頭を下げて一冊だけ製本してもらった絵本。 老人は記念のために書いたのではなく、己の持てる技量をすべてそれに注ぎ込んだ。 たった一冊の絵本。 最初にそれを読んでくれた妻は、涙を流しながら若かりし老人を抱き締めて涙を流した。 「お疲れ様です。これからもよろしくお願いします」 妻はその絵本を息子に何度も何度も読み聞かせた。 飽きが来ないように声に抑揚をつけて、若かりし老人が妻の天職は声優ではないかと思うほどに。 だが若かりし老人にはまだ燻るものがあった。 それが丁寧に消えたのは孫が生まれて、息子が老人の書いた絵本を孫に読み聞かせ始めたときだ。 「父さんが世界で一番好きな本だ!」 息子がそう言って孫に見せたとき、老人の後悔は綺麗に消えた。 その瞬間、長年連れ添った妻に小さく「ありがとう」と呟いた。 その物語の始まりを知るのは老人と老人の妻だけだ。
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