第1話 おはよう、世界

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 店を出ると、彼女はつばの広いベージュの帽子を目深に被り、私には紺色のリボンがついた白いベレー帽を被せた。  陽の長い初夏の空が、ようやく夕暮れにさしかかっている。はしゃぎながら家路を急ぐ制服姿の子供たちが通り過ぎ、石畳には細い影が伸びていた。通りに出ていた花売りや飴売りも、ワゴンのパラソルを閉じて店仕舞いを始めている。 「一人称は『私』のままで構いませんか。他にも『僕』や『俺』などございますが」 「『私』のままで結構よ」 「奥様のことはご主人様、もしくはヴィオラ様とお呼びするのがよろしいでしょうか」 「奥様にしてくれる? 私は結婚したことがないけれど、奥様って案外いい響きだったわ」 「かしこまりました、奥様。私がお荷物をお持ちいたします」  私は、飴色になった牛革にイラクサの模様が刻印された奥様のハンドバッグを手に取った。 「ありがとう。あなたにも名前をつけてあげないとね。困ったわ、こんなに早く来ると思ってなかったから、何も考えてなかったのよ。ふふ、ごめんなさい」  人間がこのように笑いながら謝るときは、それほど反省していない。しかし私は従順なる家庭用自動人形なので、気の利いたことを言わなければならない。 「奥様、私はAGP-354のままでも構いません」 「それはダメよ、台無しだわ。今晩中には考えてあげるから……陽が沈む前に帰りたいわね。タクシーに乗りましょう」  奥様はすぐに黄色のタクシーを捕まえると、町の外れになる住所を告げた。運転手はバックミラーでちらちらと私と奥様を確認し、関係を訝しんでいるようだった。  やがて指定の場所に着いたが、そこに家は見あたらない。本当にここでよいのかと確認する運転手に、奥様は少し多めにチップを渡した。すると、タクシーはあっという間に走り去った。
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