千切ったノートの切れ端

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 見たことのある表紙だった。  昔、そうだ、小学校の夏休み前、読書感想文の本を借りにいった図書室で、気になっていたクラスの女子がこれを読んでいたのを鮮明に思い出した。その子は中学で髪を染め、高校を中退して年上の男と結婚したらしい。  僕はそのとき、どうしてだかわからないけれど、ものすごく感動してしまった。なんて純粋な良い子だろうと、そのままなかば押しきる形で付き合い、同棲し、とうとう結婚までこぎつけた。うん、そうだ、きっかけはあの本だったのかもしれない。  この日もぎりぎり0時を回るころに玄関について、灯りのついたままの廊下を、音を立てないよう細心の注意を払って進んだ。以前は暗い家に帰っていたが、僕の帰りが遅くなるようになり、一度お願いしてからは何も聞かずにそうしてくれた。この年になっても暗いところが怖いなんて、笑われそうで言えなかったが、亜未にはそんなこともお見通しなのかもしれない。  彼女は時々、びっくりするほど的確に、僕のしてほしい行動をとる。読心術か、魔法でも使っているんじゃないかと思うくらいに。  欠伸をしながらネクタイをほどくと、台所から味噌汁のいいにおいがして、思わず頬が緩んだ。お風呂の前に、寝室を覗き見る。  気に入っているらしいピンク色のアイマスクも、彼女が身につけると舞踏会の仮面に見えてくるから不思議だ。静かな寝息をたてる姿はまるで眠り姫のようで、姫、という言葉につられるように、ふとあの本のことを思い出した。  リビングに戻り、胸ポケットからくたくたになった手帳を出す。何て書こうか迷いながら、結局、いつもありがとう、と陳腐な言葉しか思いつかない自分を恥じた。棚から取り出した厚いハードカバーを後ろから開き、漠然とした記憶を頼りにあのページを探し出す。ああ、あった。  そこにちぎった手帳の端きれをはさみこみ、少し悩んで、これからも僕だけの魔法使いさんでいてください、と付け足した。少し気取りすぎだろうか、と寝不足の頭で苦笑しながら本を閉じる。  このイタズラに気づいたときの顔を想像して、ひとりほくそ笑みながらベッドに入った。すっかり夢の世界にいる妻に、小さな声で話しかける。  おやすみ亜未。君との毎日は、本当にしあわせしかないよ。   「亮くんおはよう。よく眠れた?」  黄色いたまごやきを食卓に並べながら、亜未が穏やかに笑いかける。うんうんと頷くと、まるでスキップするような軽い足取りで台所にもどっていった。朝から機嫌が良いのか、鼻唄まで聞こえてくる。あ、もしかして、もうあのメモを読んだのかな。喜んでくれたならよかった、とあたたかい味噌汁をすする。  実は一度だけ、あの本を読んだことがあった。といっても本が好きでもない僕はズルをしてエピローグしか見ていないのだが、そのページのことは覚えていた。というより、亜未の寝顔を見て思い出したといったほうがいい。  確か、いなくなった魔法使いの女の子を、王子様が何年もかかって探し続け、ようやく見つけ出したあのシーン。そのとき王子様は女の子に、こんなことを言うのだ。  僕は、君のために生きることにしたよ。
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