魔法なんてないこの毎日が

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 目が覚めると、いつ帰ってきたのか、隣に亮くんが眠っていた。時計は深夜と朝方の間だけれど、わたしはいつものようにこっそり起き上がる。  廊下とリビングは大丈夫。あっ、トイレの電気、つけっぱなしだ。  ぱち、とスイッチを押して、暗闇を静かに歩く。たまに脱いだ靴下が落ちているから、注意深く足の裏の感覚を研ぎ澄ます。  こういうときは特に、魔法が使えたらな、と思う。地面に落ちたときが怖いから、空は飛べなくたっていい。元に戻れるか心配だから、変身はできなくってもいい。靴下のもう片っぽをすぐに見つける魔法だとか、家中の灯りを消したりつけたりできる呪文が欲しい。  そんな想像ばかりする自分が、ほんのちょっぴり嫌になることがある。……おっと、何か踏んづけたみたい。  リビングの電気をつけると、わたしが踏んづけたのはネクタイだった。拾い上げたとき、ふと、テーブルの上のハードカバーが目に入る。あれ、片付けたと思ったけどな……と手にとって、はたと気づく。亮くんが、この本を見た。見たんだ。  わたしは青ざめて、心臓がばくばくして、手癖でネクタイをぐしゃぐしゃに丸めてしまった。わざわざテーブルの上に出すくらいだから、きっと馬鹿にされる。そうしたらもう、恥ずかしくって、わたしはこの本を読めない。  気づくとわたしは最低限の荷物を持って外に出てきていた。電車もバスも動いてないような、草木も眠る丑三つ時だ。空気がしんと冷たくて、昼間と同じ場所とは到底思えなかった。まるで、魔王のアジトへの入り口のよう。  実家は遠くて電車がないと行けないし、結婚して引っ越したばかりの専業主婦には他に行くあてもない。せめて夜風に冷えないよう厚着してきたからと、とりもあえず歩き始めた。軽さが売りのトートバッグの中で、あの本の重みがやけにずっしりと肩にのしかかった。  灰暗い星空を見上げながら、やっぱり魔法が欲しくなってきた。わたしがわたしだってばれないような変身魔法や、空を自由に移動できるような呪文があれば、こんな私でもこの先どうにか生きていける。  でも、現実のわたしは主人公じゃないから、そんな奇跡は起こらない。幸い家の周りは住宅街で、あちこちに並んだ街灯がやさしくわたしを導いてくれた。  途中に小さな公園を見つけたので、ベンチに座って休憩した。冷たい鉄に体温を奪われるが、歩き続けるつらさよりはいい。まだ胸がどきどきしていた。こんな夜中に外を出歩くなんて、本の中でしかしたことがなかった。  遊び相手のいないブランコが、さびしくじっと吊り下がっている。動くことのできない遊具たちは、肩を寄せ合うこともできずにただ佇んでいた。砂場に残された野球ボールが、孤独な空気感をさらに強める。  わたしはゆっくり息をしながら、すがるように本をとり出した。落ち着かないまま、とにかく続きのページを開く。物語の中に入ろう。魔法を使える女の子になろう。  しかしいくら読もうとしても、目が文字の上を滑ってしまい、内容が全く頭に入ってこない。言葉としては理解できるのに、それがイメージとして浮かんでこないのだ。  焦れば焦るほど、連なる字のひとつひとつが、意味をなさない象形文字のように見えてきた。次々とページをめくるうちに、涙が出てきそうになった。早くあの女の子にならなくちゃ。わたしがわたしでいる限り、いつまでたっても魔法なんて使えないのだから。  そして最後のページをめくったとき、一枚の紙切れがベンチの上にすべり落ちた。 「何……?」  ノートを千切ったような不細工な紙に、なにか書いてあることだけがわかった。線が薄くて見えないので、街灯に近づけるように頭上に掲げて、目を凝らす。少し崩れた、男子小学生みたいな字だ。  短いメッセージを読んだ後、わたしは本をそっと閉じた。そして再び、今度は確かに地面を踏んで、暗闇の中に歩みをすすめた。
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