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友達や家族には何も話すこともなく、ひっそりと身辺整理を始めたりもしました。
別に自分が死ぬこと自体は構わないのですが、私が死んだあとにいろいろと片付けてもらうのは恥ずかしいですからね。
当時健康体であった私は、自分の死因がどのようなものになるかは見当がつかないけれど、おそらくは事故にでも遭って、ある日突然死ぬのではないかと想定していました。
今となっては、あまりはっきりとは覚えていませんが、自分の死を前にして、私にはこれといった恐怖感はなかったように思います。
それは諦めに似た受け入れ…抗っても変えることは不可能なシナリオ通りに、ただなぞって生きていくことに、私が慣れきっていたからかもしれません。
ですがそうして身辺整理をあらかた済ませ、せめてもと、ささやかな自分の葬式代を貯めていくなかで、それから月日は一年、二年と経っていき、そして三年が経ち、それでも私はしぶとく生きていました。
ここまで生き残ることができれば、やっと信じられるというものです。
そうか…私は、ただ『予知夢』を見るという力を失ってしまっただけなのだ、と。
そして今の日常が…未来のことなど何も知ることなく、今見知っている情報だけで、自分の進む道を選択していかなくてはならない…これが、一般的な正しい生き方なのだと、不思議な虚無感とともに理解しました。
私は、それまでの自分らしい生き方と、一種のアイデンティティを失いながらも、それでもこれでやっと自由になれたのです。
先のことが分からない不安、これが最善であると思っているはずなのに自分の選択を疑いながら、それでも前へと進んでいかなければならない人生。
慣れないながらも手探りで私は日々を歩んでいき、そうしてさらに数年が経ちました。
『予知夢』を見ずに過ごす人生が数年も経てばさすがに、私にとってもそれがスタンダードとなってくるものです。
中学生になることが不安でたまらなかった小学校六年生が、いざ中学生となったら、昔の自分が抱えていたあれだけの不安感が他人事のように遠く思えてしまうのと、おそらく似たようなものだったのでしょう。
数年後の私には、『予知夢』を見ていた自分…というものが、やけに他人のように遠いものに思えてきていました。
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