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男は大企業の社長を務めていたため裕福ではありましたが、私的な出会いも時間もなく未だ独り身でありました。彼女が目をつけられたのはそのためだったのです。二人に子ができるまでそう時間はかかりませんでした。
身ごもったことを祖母に知らせに故郷の家へ彼女は帰りました。しかしそこには祖母はおろか家すらもなかったのです。引っ越したのだろうと思った彼女でしたが、祖母は一人でそんなことができる歳でもありません。不思議に思って彼女は近所の人に尋ねると、彼らは答えます。
「おばあさん? 何言ってるんだ、病気で亡くなったって聞いたけど違うのか? 家が壊される前によく綺麗な真っ黒い車が来ていたから、あんたが看病するために連れてったんだと思ってたよ」
もちろん彼女には祖母が病に侵されたり、ましてや亡くなった知らせなど届いていません。
それを聞いた彼女の旦那は答えます。
「それは残念だ。でもよかったじゃないか、これからはあんな町も忘れて私に集中できる」
彼女はもう二度と彼に会うことも、故郷に戻ることもありませんでした。
遠くの国に逃げた彼女は腹の子を産み落とし、また別の国へと、もっと遠くへと去って行きました。
ええ、その子供がヴァットだったのです。
手紙には王家のものとは思えない、手書きの異国の言葉が書かれた小さな紙切れが付いていました。
「謝りたい、償えるとは思っていない、ただ会いたい、愛している」
アットが訳します。
その最後には、ハイルへ、とそう書かれていました。
ヴァットにつけられたはずの名だそうです。
異国の言葉で「愛」を意味する名でした。
ヴァットは泣いていました。
会ったことなどない女性からの手紙に。
会いたい、そう言っていました。
彼が雪崩に巻き込まれたのは、その翌日のことでした。
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