第一章 未完成の物語

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第一章 未完成の物語

 電車が真横を通る時に吹く、風が好きだ。線路の指さし確認を終え、くるりと電車の進行方向に体の向きを変えた後、背中に電車が迫ってくる。僕を追い越して、先頭車両が過ぎていく数秒間。制服の裾がわずかに揺れ、帽子からはみ出た僕の前髪がそよぐ。  ドアの横に立った僕は、毎朝決まった文句を口にする。 「ご乗車になりましたら、電車の中ほどまでお進みください」もしくは、「できるだけすいているドアからご乗車ください」だ。  律儀に従ってくれる人もいれば、意地の張り合いのように混んでいる場所に突っ込もうとする人もいる。たぶん、大人というのはそう“大人”ではないのだ、と苛立ちを取り繕わない彼らを見て思った。就活を控えた僕からすると、ほっとするようでもあり、がっかりするようでもある。 「間もなくドアが閉まります」  僕は電車に突撃している背中に叫んだが、目の前の乗車口からは人が乗りきれていない。にもかかわらずドアが閉まり始め、僕はドアに手をかけて止めた。足を踏ん張らないと、手と体が持って行かれそうになる。空いた方の手ではみ出していた鞄を押し込めると、ドアは無事に閉まった。左右のドアも閉まっていることを確認し、手を上げて合図をする。ホームに立つスタッフ全員が合図し、電車は発車した。一仕事を終えた僕は、ふうと息をつく。アルバイトの仕事は、この繰り返しだ。この駅では、朝の七時半から八時が、通勤ラッシュのピークである。現在、七時五十五分。そろそろ、今日も人が減ってくるだろう。  特別、電車が好きというわけではない。アルバイト仲間には確かに鉄道好きが多いが、僕は違った。そもそも、何か打ち込んでいるものだとかこだわりだとかが、僕には全くなかった。何とか線の新型車両が、なんて話で盛り上がっている人たちを見ると、夢中になれるものがあることが、素直にうらやましいと感じる。  視界の端に、階段を上ってくる同僚の姿が見えた。彼は僕と視線を合わせると、身振りで交代だといった。僕は頷き、持ち場から離れる。 「掃除、頼むわ」  ポンと肩を叩かれ、僕は彼の顔を見た。普段は、そんなことはされない。何やら含みのある笑みを浮かべているような気がしたが、僕は黙って頷いた。
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