第四章 春が聞こえる

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「たぶんあの物語は、東堂さんへのエールだよ。桔夏も、がんばれって言ってる」 「……ええ、私は逃げないわ。どんな結末になっても」  彩有里は前をまっすぐに向いて、そう誓った。車窓から差し込む光に照らされた横顔は、凛として美しかった。 彩有里の恋人、細田(ほそだ)貴一(きいち)の家の最寄駅は偶然にも、僕の家の最寄駅と同じ路線だった。僕のアルバイト先になっている駅も、同じ路線にある。渋谷にほど近い、学生の多く住む街の中だ。  がやがやした駅前を抜けて、アパートやマンションが立ち並ぶ方へと歩く。徒歩十分くらいだと、彩有里が言った。 「ここよ。二階の端が、あの人の部屋。……もう! また昼間なのにカーテンを閉めっぱなしにして!」  彩有里は錆びついてぼろぼろの階段を、ヒールで叩きつけるようにして上っていった。僕と透弥も、その後ろに続く。部屋の中の気配を窺うこともなく、彩有里はインターホンを押した。ビー、という昔っぽい音が鳴る。  しばらく待ってみたが、ドアが開くことはなかった。 「いないのかしら、それとも寝てるの?」  彩有里は首をかしげながら、真顔でインターホンを連打している。正直怖い。僕がこんな風に突撃されたら、ドアの向こうで震える。  連打は永遠に続くかと思われたが、部屋の中で何かを落としたような音が聞こえて、彩有里はようやく手を引込めた。   息を詰める僕らの前で、ドアがゆっくりと開く。彩有里は仁王立ちで、それを見ていた。 「ひ、久しぶりだね、さっちゃん」   顔だけ覗いたのは、髪はボサボサ、伸びきった前髪で目が隠れた、陰気な男だった。背は高そうだが、腰を屈めて彩有里を見上げている。彼の瞳には明らかに、怯えが見えた。間違いなく、彼が貴一だ。 「ちょっと邪魔するわよ」 僕らのことを友人だとおざなりに言って、彩有里はずかずか入っていく。さすがに部屋に上がるのはどうかと思い、僕と透弥は玄関に留まった。入ろうにも、四人もいたらぎゅうぎゅうだ。ただでさえ狭いワンルームなのに、積まれた本やら脱ぎ捨てられた服やらで、足の踏み場もない。   彩有里はキーボードとパソコンの置かれた一角――そこだけ割合綺麗にしている――にある椅子に腰を下ろし、ロングスカートに包まれた足を組んだ。
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