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今でも陸を見ると、あの匂いを思い出す。決して出会うことはない、それなのに心から離れない。もどかしい憧れだ。
花だけではない。母さんからは「ヒト」という生き物のことも聞いた。彼らは長い胸びれを持ち、二本足で歩くらしい。その胸びれで「花」を育てたり、「道具」というものを作ったりするそうだ。陸にそびえ立つ巨大な「街」は、全てヒトが作ったという。
想像しても仕切れない。私の小さな頭では永遠に理解できないだろう。ああ、一度でいい。あの世界に行く事ができたら!
「また陸を見ていたの」
気がつくと、隣に母さんがいた。
「うん」
私は素直に答える。
「母さん、どうして私たちは陸に行けないの? 」
そして素直に聞く。今日の私は質問ばかりだ。
そうねと言って、母さんも陸を見つめた。
そして沈黙が始まった。長い長い、静かなひと時だった。波の音だけが時を刻んでいた。
それからしばらく、私達は陸を眺めていた。私は母さんが何か言うのを待っていたが、その口が開くことはなかった。
不思議と腹は立たなかった。こうなることを、私はわかっていたのかもしれない。
私達は陸を見つめ続けた。隣の母さんのことは、もう気にならなくなっていた。
そのあと私達は群れに戻ったのだろう。気がついたときには、みんなと一緒に泳いでいたのだから。母さんもいた。いつも通りの1日がそこにはあった。変わったのは、私だけだった。
私の中の憧れは、この日から一層強くなった。それと同時に、心の中にぽっかりと、何か足りないものが生まれた。何が足りないのか。私がそれを知るためには、もう少し時間が必要だった。
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