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「今日は一人で行ってくるよ」
翌日、ユーリィはクドを置いて単独で図書館に向かった。彼は特に何も言わなかったが、原則として記録士と記録用ドローンは行動を共にしなければならない。おそらく無駄なエネルギィを消費することになる、と判断したのだろう。コードを守れと口うるさい割りにはそういうところはちゃっかりしていた。
雨露が地面や割れた路面の上で生え散らかした草木に付着し、何度か足を取られそうになる。途中にあった大きな裂け目は迂回するのもいい加減面倒だったので電柱の折れたものを持ってきて渡れるようにしておいた。コードにこそ書かれていないがあまり調査地のものを動かしたり破壊することは好まれない。それでも扉や壁を破らなければ中を調べられなかったり、時にはそのままにしておくことで危険性が勝ったりするので、現場判断で多少の破壊行為は認められていた。
中はびしょ濡れだろうか、という予測と共に訪れた図書館の玄関までやってきて覗き込むと意外に雨の被害は少ないように見える。風の角度で崩れている側はあまり吹き込まないのかも知れない。
「ユーリィさん。おはようございます」
「ああ、おはよう、と言うんだったね」
誰かと出会った時に午前の時間帯であればそう声を掛け合うのだという知識は持っていた。玄関ホールの正面で同じようにユーリィを待っていた彼女は、その輪郭を僅かにぶれさせながらも微笑を浮かべている。
「彼は本を借りに来ますかね」
「彼というのはアンドレ・ヤンさんのことですか?」
それに頷くと予想通り彼女は昨日と同じ説明をする。彼女にとって彼は永遠に帰ってこない存在なのだろう。
「待っているんですね、彼のこと。アンドレ・ヤンさんはどんな方なんですか?」
「どんな……」
そこで彼女は目を何度も瞬かせ、それから少しだけ眉間に皺を作る。
「宇宙飛行士というのは聞きました。国を代表する立派な方だとも」
「ええ、そうです。アンドレ・ヤンさんは貧しい家庭で育ち、学校もまともに行けない中で、こちらの図書館を利用して独学で沢山の知識を修められました。国の支援制度を利用して大学に進み、学位を取得し、この国で初めての宇宙飛行士になられたのです」
彼女は淀みなく語る。まるでよく練習し、何度も他人に対して同じ文言を伝えたかのように。
「この本は、あの人の為に取ってあるんです。あの人は本をとても好きでした」
「ボクも本は好きです。小説はよく読みます。可能なら沢山の本に囲まれて生活できればと思いますよ」
見渡した書架はどれも倒れ、朽ち、そこに僅かに残る本だったものたちも中身はない。本はどの現場でも腐敗、腐食、破壊されてしまっていた。
「本は、宝物だと思います。本に書かれているのは物語だけではありません。そこには様々な人の思いが溢れているんです」
彼女はそう言って何かを思い出すように虚空を見る。
「分かりました。もう一日待ちます」
「すみません」
建物を出た彼は空を見上げた。分厚いガス雲の、更に向こう側だ。
そこにはもう、月面基地は存在しない。十年も前に砕け、その大半はこの大地へと降り注いだのだ。当時の映像記録はライブラリで一度見たが、正にこの世の終わりと呼ぶに相応しい映像だった。
「本には思いが溢れている、か……」
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