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『ハーイ。こんにちは』
ひび割れた壁に楕円形に映し出されたのは宇宙船内で撮影された録画映像だ。画面の中央で、小麦色の肌の、くるくると癖の強い毛を後ろでまとめている女性がにこやかに手を振っている。
『ジャスミン・チェンです。地球を出て三日目。明日には月面基地に向かいます』
話している言語は英語だったが、彼女にも伝わるように下に翻訳字幕が表示されている。こういう細かい気遣いをクドが常時してくれれば良いのに、とユーリィは思うのだがそれを口にすると気遣いについての講義が始まるから、いつも心の中に仕舞っておく。
『宇宙から見た地球は本当に綺麗で、最近異常気象が続いていると云われていますが、全世界の人がこの光景を見れば自分たちが暮らす場所をもっと大切にしなければいけないと思ってくれるんじゃないかと、私は期待をしています』
映像を撮影しているカメラの向きを少し右にズラすと、丸い窓から小さく青と白の惑星が見えた。映像でしか見たことのない昔の地球の姿だ。ユーリィの前で彼女はそれを自分の口元に両手をやりながら黙って見つめている。
宇宙飛行士のジャスミンは続けて船内でどんな暮らしをしているか、月面基地での任務への意気込み、それに地球に残した家族や友人たちへの言葉を、笑みを浮かべて話した。それらはホームビデオのような呑気さで、基地に到着して半年もしない内に誰も予想し得なかった大災害によりその生涯を終えるとは思えない明るさに満ちていた。
『宇宙飛行士になるのは私の一つの夢でした。あまり裕福ではない家庭で、満足に本も買えず、それでも何とか勉強したくて図書館に通った日々を今でも忘れることはできません。それでも諦めない限り、夢は手が届くところまで近づけることは可能なんです。私は夢を掴むまでに本当に沢山の人にお世話になりました。家族や学校、大学の先生、先輩、同級生たち。他にも沢山います。一人一人に今ここで感謝を述べる時間はありませんけれど、本当に心からお礼と感謝を言わせて下さい』
じっと彼女の言葉に耳を傾けていたジャスミンだったが、使っている言語が突然現地語に変わり、はっとしたように声を漏らした。
『最後にもう一人だけ、私が宇宙飛行士になるのにお世話になった彼女に伝えてもいいでしょうか? 図書館司書のリーナさん。ねえ、リーナ。元気にしてる? 約束の本はちゃんと取ってあるかしら』
「はい」
『そろそろモスクの前に植えた花が咲いている頃かしらね。もし咲いていたら、ちゃんと写真を取っておいてね』
ジャスミンではない。リーナは目に涙を溜めて、映像の中で手を振るジャスミンに同じように手を振り返している。その手が、指先から光の粒に変化していく。
「崩壊現象だ」
クドがわざわざ言葉にしたが、
「知っているよ」
ユーリィは小さく言って、それから先の言葉を遮った。
彼らの見ている前でリーナの全身が光り、それが明滅を繰り返しながら徐々に空気に溶けるように淡くなっていく。その瞳から、光の雫が零れた。幽霊に意思はない、と云われている。けれどユーリィを見て彼女は一度頭を下げた。それから声にはならなかったが「Terima kasih」と口を動かすと、そのまま光の粒になり、霧散してしまった。
「雨が降り始めた」
「そうみたいだね、クド」
完全に彼女が消えてしまうと、ユーリィは外に確認に向かったクドを放っておいて一人ケースの中の本を手に取った。カバーが歪み、紙の上下が変色していたが、中の文章には目立った汚れはない。
数ページを確認するように捲ると、興味を失ったかのようにそっと本を閉じた。
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