幻の本

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 授業が始まるまでの僅かなあき時間。岡崎は自分の研究室に戻り、ひさしぶりにネット検索を始めた。古書専門の検索ページではなく、同僚に勧められたネットのフリーマーケットだ。 「びっくりしましたよ。〈梵文金光最勝王経〉が千円で出ていたんですよ。本の内容の判らない人が出品したのでしょう」  講師控え室で、若い助手は嬉々として事の顛末を吹聴する。ネットのフリーマーケットでは、高価な貴重本が廉価で取引されていた。その僥倖がよほど嬉しかったのだろう。若い助手は、ネット社会を不得手とする老研究者たちを熱心に勧誘した。  末席に座っていた岡崎には、どうしても手に入れたい本がある。  今をさかのぼること二十数年前。その頃、岡崎は大学の研究生としての生活を始めたばかりだった。学会の手伝いに駆り出された岡崎は、初めて訪れた長野の街を散策する。賑やかな善光寺の商店街を少しそれた所に、その古書店はあった。古いガラス戸を開け、軽い気持ちで中に入る。さすがに仏教関係の書籍が多く、京都ほどではないにしても高額な値がついていた。何か掘り出し物がないかと身を屈めたとき、四冊まとめて縛られた全集を見つける。値札は二千円。 「東方瑞雲全集」  聞いた名だ。  おぼろげだが何かの論文に引用されていた著者名だと岡崎は思う。それにしても二千円は安い。 「これは本当にこの値段ですか?」  初老の店主は若き岡崎を一瞥したあと、丁寧に応えた。 「それはね、五冊揃なんだよ。一冊ないの。だから格安」  研究とは無関係の小説を二冊加え、岡崎はその欠損のある全集を購入した。大学に戻ればどこかに欠損巻はあるだろう。いざとなれば国会図書館で読めばよい。しかしその考えが甘かったことを後で思い知る。
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