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その後、大学に戻り図書室で調べたが〈東方瑞雲全集〉は所蔵していなかった。岡崎はもともと哲学科の所属であったが、仏教経典の研究で卒業したため、今では宗教関係の教授たちに知己を得ていた。彼は、温厚な紳士から、偏屈な老人まで、学内の教授たちに東方瑞雲とその全集について雑談を装いながら問うた。しかし捗々しい結果は得られない。民間の学者を蔑視する風潮が学問の世界にはある。
その日も開口から否定的な意見だった。
「読んだこともない。君、あんな素性も知れず、学者とも呼べない人物を調べるのは時間の無駄だ」
このまま説教になってはかなわない。岡崎は顕学の教授に謝意を述べ、這う這うの体で研究室を後にした。こうなったら国会図書館で読むしかないだろう。あそこにはあらゆる書物が法律により収蔵されている。
「岡崎くん。国会図書館に行くつもりかい」
振り向くと、先ほどの研究室で黙って会話を聞いていた田中助教授(この頃は准教授をそう呼んだ)が薄暗い廊下に立っていた。痩せて面長な田中助教授は、口元に不穏な笑みを浮かべている。博識だが、サディストの面があると噂され、岡崎は関わりを避けてきた。
「はあ」
曖昧な返事でお茶を濁す。
「国会図書館には無いよ。いや〈有る〉けど〈無い〉と云った方が良いかな。なんだか西田幾多郎みたいな言いまわしだな」
岡崎が哲学科出身であることから出たジョークだろうか。
「まあいい。どうだい、情報と交換に俺に昼食を奢ると云うのは」
危険を犯さないと得られない情報と云うものがある。岡崎は取引に応じることにした。
連れていかれたのは教授たちが愛用する寿司屋。二人は座敷へと通された。昼食とは云え貧乏研究者には痛い出費だ。
「上にぎり」
田中は遠慮することなく注文する。
「岡崎くんはいけるくちかね?」
「田中さん昼ですよ」
「俺はこの後自由研究なもんでね」
田中はビールを追加でオーダする。岡崎は一番安い梅握りを頼む。
「四巻目を探しているんだろ」
唐突だが核心を衝いて来た。岡崎は自分でも表情が変わったであろうことが判る。田中はニヤリと笑い、運ばれたビールをひとくち呑むと話の後をつぐ。
「〈東方瑞雲全集〉の四巻は、この世に存在しない」
田中は、岡崎の落胆する表情を見た。この若い研究者をいたぶることを彼は心の底から楽しむ。
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