幻の本

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「まあ無いと云うのは無謀かもしれない。印刷はされたのだから」  田中は大トロに手をつけた。 「販売する予定の四巻には乱丁があったんだよ」 「乱丁?」 「一頁白紙で製本されたのさ。そのため市場には出まわらなかった。費用はかかるが直して出版すれば良いと思うだろ? 他の巻はもう出しているし、予約購読もされていたそうだからな」  田中はウニを口にはこぶ。話はこれからだ。 「何故改訂版が出なかったのか。知っての通り改國舎は右翼から支持され、財政的には潤っていた。その顧問のなかに石橋莞爾がいた」  研究肌の岡崎ですら石橋莞爾の名は知っていた。中国柳湖で満州鉄道の線路を爆破し、その罪を敵対する張氏になすりつけ、日本軍が中国大陸に進出する切っ掛けを作った人物。 「時期が悪かったのだよ。改國舎の連中は、四巻を訂正する前に皆中国大陸に渡っちまったのさ」  乱丁の四巻は、その時紙屑の如く捨てられたのか。  田中は昼から呑んだ麦酒のため饒舌になっていた。知識を持つものは、その知識を自慢し、ひけらかす。 「国会図書館には、何故かその乱丁本の四巻が収蔵されていた。乱丁が発覚する前、旧帝国図書館時代に納められたのかもしれない」 「じゃああるんですね」 「昔はね。昔は現物があったようだが、今は複写したマイクロフィルムしかない」 「どう云うことですか?」 「つまり複写を読むことは出来るが、現物は誰かが盗んだのさ」 「まさか国会図書館で!」 「戦後のどさくさで、お前みたいな変てこなコレクターが上手く立ち回ったようだぜ。図書館に勤務する知り合いから聞いた話だがね。まあ所詮素人の学問、東方瑞雲なんてえのは忘れ去られる運命なのさ」  田中は残りのビールを飲み干す。これ以上この先輩に付き合う必要はなさそうだ。 「上握りの分は払っておきます。ビールは約束していないのでご自身でお支払下さい」  岡崎は唖然とする田中を後に、急ぎ店を出た。
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