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新人の研究生は雑用に追われる。岡崎がようやく国会図書館を訪れたのは、田中との会食から三日後であった。かつての国会図書館は待ち時間が長く、利便性より官僚的な雰囲気があった。その日岡崎は覚悟を決め一日をついやするつもりで出かけた。ところが拍子抜けするほど事はスムーズに運ぶ。発注が終わり持参した漢訳〈理趣経〉を読み始めたところで、フィルムが窓口に届く。
指定された投射機にフィルムを装着し、ピントを合わせる。本来なら冒頭から読み進むべきなのだが、田中の云う白紙の頁がどうも気になる。
三章の終わり近くにその部分はあった。しかし、これは本当に乱丁なのだろうか。
その前頁の最後一行には、
「畢竟立川流の根本趣意は各の如く理解すべき」
とあり、三行ほど空白ののち白紙頁になる。裏も同じく白紙。そして次頁の冒頭には、
「根本儀を、佛説に反する異端として捉えるならば、真言における菩薩の位を再吟味すべきであらう」
岡崎の身体にその時電流が流れた。これは乱丁でない。この白紙部分には立川流の奥義が記されるはずであったのだ。田中は関係者からの又聞きで、単なる乱丁だと錯誤した。
その発見に岡崎は思わず立あがる。静粛な空間に漏れた激しい椅子の音で、数人が岡崎を一瞥したが、何ごともなかったかのように各々自己の読書に戻った。
「もしかするとこれは白紙ではなく、東方瑞雲が何かメッセージを託したのではなかろうか。この頁には何か仕組みが施されており、その事に気付いた誰かが、原本を手にいれるために盗んだ」
だが岡崎はそれを確かめるすべを持たなかった。はたして〈東方瑞雲全集四巻〉はこの世に存在するのだろうか。
二十年の歳月が流れ、研究生岡崎は准教授となる。
〈東方瑞雲全集第四巻〉は、長年彼の探し求める幻の本だ。職業柄情報は入ってくる。これまで古書目録に目を通し、古書ネットをつぶさに検索して来た。たまに所持する巻が出て来ることはあるが、〈第四巻〉はついに現れたことがない。やはり幻なのだ。
「まさかネットのフリーマーケットに・・・」
岡崎は自分の研究室でPCに向かう。ネットフリーマーケットへの個人登録。操作の基本は若い助手のメモを参考にする。登録だけで短い休憩時間は過ぎた。マルカリ、ヤスオク。長年の挫折から、もはや期待することもなく、事務的に〈東方瑞雲〉とだけ入力する。
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