幻の本

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 ところが、ヤスオクに結果が一件〈東方瑞雲全集・二千円送料別〉と出た。  写真もなく、巻数も記されていない。心が騒ぐ。だが岡崎はPCをそのままの状態にし、いそぎ教室に向かう。もう講義の時間だ。  〈龍樹の中論〉出席者は十人に満たない。とは云え〈空〉を理解しないと大乗仏典理解はなりがたい。岡崎は自分の講義が普段より熱がこもっていることに気付く。精神が高揚していた。PCが示した結果がそうさせるのか。彼は苦笑した。また期待外れの結果になるだろうに。  自室に戻ると通信欄に〈巻数をお教え下さい〉とだけ入れ〈ウオッチ〉と云う印をつける。返事を待つ間、落ち着いて思索する気にもなれず、机に溜まった雑多な書類に目を通した。  1時間もせずに返事が来る。文面から、どうやら古書専門の業者だと判る。 〈校正本で、所々赤字が入っております。また所々イタミがあります。それでもよろしいでしょうか〉  写真の載ってない理由を得心する。 〈かまいませんが、巻数をお教え下さい〉  今度はすぐに返事が来た。相手はいま同じくPCに向かっている。 〈全冊揃いです〉  岡崎はまさかとおもったが念のため再び確認メールを送る。 〈全冊と云うと五冊揃いと云うことですか〉  可能性はある。印刷所や関係者が校正で使った朱の入った本を何度か見たことがある。リサイクル紙として処分されるところを、専門の業者が受取り市場に出すのだ。 〈そうです〉 〈わかりました。では購入します〉  岡崎は興奮していた。だが足元を見られないよう努めて淡泊に購入手続きを行う。  その日の夜、〈大仏教事典〉編纂会議の為、岡崎は神楽坂の出版社に赴く。重鎮の多くはまだ来ておらず、教授となった田中の顔があった。 「〈仏教史概説〉売れているそうですね」  膨大な知識をまとめることに秀でた田中は、概説書や辞書作りに欠かせない研究者となっていた。彼は社交辞令にまんざらでもない顔で返答する。 「これはこれは。〈グノーシス派の魂と魄の概念〉。そちらこそ評判じゃないですか」  岡崎は、中国思想と初期キリスト教の比較研究を出版したおかげで、思想界隈に名前が知られるようになっていた。ここに呼ばれたのも最近の流行を事典は取り入れたがるからだ。  
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