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学会内で岡崎と東方瑞雲の関係を知っているのは、おそらく田中しかいない。
長年探し求めた幻の本がまもなく手に入ると云う気の緩みから、岡崎は饒舌になる。田中に、これまでの推移と白紙部分の推測を語る。
「なるほど乱丁ではなく白紙の部分に何か書かれていると君は思うのだね。ならばその解読に協力して進ぜよう。本が到着したら連絡してくれたまえ」
昔と変わらぬ冷やかな笑みが田中の薄い口元に浮かぶ。一旦は承諾したものの岡崎は知らせるつもりは微塵もなかった。だが彼は自らの軽薄な行為を後悔することになる。次の日から、田中の〈本は届いたか〉メールがひっきりなしに届く。この執拗さが田中の研究を精密なものにしていた。
研究室には岡崎と田中、そしてネットでの検索を勧めた若い助手が集う。彼らは一冊の古書〈東方瑞雲全集第四巻〉を手に議論を重ねていた。岡崎は田中と対になることを避け、この若い助手を巻き込んだのだ。
「たしかにこの白紙頁だけ紙質が違いますね」
若い助手は、その頁を蛍光灯に透かして見ていた。
「他の頁は過年で黄ばんでいるが、その頁だけ少し白い。おそらく和紙ではないか」
田中の蘊蓄は信憑性がある。若い助手は丁寧に白紙の表面を撫ぜる。
「和紙だとすると高級品ですね。表面にざらつきがない」
「しかしどうみたって白紙だ」
その何も書かれていない頁に落胆する岡崎に、若い助手はこともなげに云う。
「調べましょう。工学部に知り合いがいるから、スペクトル解析とか、レントゲンとか、質量分析とか、餅は餅屋ですよ」
中年の宗教学者は、科学に弱く発想も貧弱だと自戒する。
若い助手が紹介してくれたのは強い化粧が印象的な女性で、その部屋のリーダーらしく他の研究者に指示を与えていた。
友人の気安さからか、若い助手は要点だけ簡単に説明する。彼女はそれだけで全てを理解し、白紙頁を見るなり
「とにかくこの頁だけ本から切り離して下さいね」
と事務的な口調で指示した。
岡崎は名刺を渡しながら
「費用はおいくらぐらいかかりますか」
と社会人のたしなみを見せる。
彼女は朗らかに笑うと
「分析と結果次第。まあここにある機材を使う分には無料でいいですよ」
准教授と云う肩書きは、敬老の役割も果たすようだ。
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