伯楽一顧亭にて

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 そうとだけ書かれて――否、横書きに店名を書いた斜め左上に《BAR》とあるではないか。  なんともはや。西洋風なカクテルバーに『亭』はないだろう。  亭の玄関を前にせせら笑ったが、徒に吹く冬風に抗う術はない。しかもバーということは、俺が万里の道を歩き捜し求めていた酒があるではないか。  ――三分で万里は歩けない?  何をか言わんや。雪の殴りつけてくる冬道を雪に不慣れな人間が歩けば、すなわちその道程は縦令(たとい)十歩ほどの距離であろうが万里となるべきである。それでも不満なら実際歩いてみろ。今文句を言ったお前達が、不意の雪道に足を取られあまつさえ転んだのならば、俺は瞬時にそこへ駆けつけて腸をねじ切るほどに腹を抱えて嘲笑ってやろうじゃないか。そのときの俺を、恨むまいな。  而して俺は扉を開いた。  客は誰も居なかった。至って一般的なカクテルバーのカウンターを備えていた。バーカウンターの中でグラスを拭いていたマスターと思しき男性は、此方を向くと柔和な微笑みを見せた。ブラックベースの内装はアダルティーなムードが骨の髄まで身体を冷やした俺を迎えた。間接照明がそれをさらに引き立てている。是非とも早急なるそのアンバランスな店の改名を希望したい。
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