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右府将軍紫陽(しよう)の率いる討伐軍は凱旋の途にあった。王都盧遮那(るしゃな)まではあと二百里余り、行程にして十日を残す程。夕暮れまで行軍した討伐軍は街道の町、趙梁(ちょうりょう)での宿営を決めた。
趙梁の有力者や豪商達は逆賊鰐淵(がくえん)が討伐され、長く続いた戦乱が終結したことを喜び、多くの献上品や酒肴を持参したが、紫陽はこれを辞退した。代わりに求めたのは兵士たちを町内の民家に分泊させることで、快く受け入れられた。
一方で紫陽は兵士に対し『それぞれ宿泊した家の家人が食べるものより上等なものの提供を受けてはならぬ。酒もまた同じ』と命じた。紫陽の軍の軍規が厳しいことは有名であり、結果として準備された酒肴を住民と兵士が一緒に飲み食いする宴が全ての民家で開かれることになった。
紫陽自身は側近とともに、町一番の豪商崔燕(さいえん)の屋敷に宿泊した。崔燕は山海の珍味ととびきりの美酒を提供して歓待する。紫陽は崔燕やその家人と食卓を囲み、討伐の戦功譚に花を咲かせた。将軍は終始にこやかに談笑していたが、一刻が過ぎた頃、崔燕に厚く謝辞を述べ準備された離れの建屋へ引き上げていった。
何台もの燭台で照らされた部屋の中、紫陽は平服に着替え、肘掛け椅子でくつろいでいた。すぐ横の卓子には崔燕が手配した酒とつまみが載せられている。紫陽は銚子から青い玻璃の杯に酒を注いだが、杯を手に取り、玻璃に映る燭台の炎のゆらめきを眺めるだけで酒に口を付けようとはしなかった。
「紫陽様」
扉の外から声がかかる。
「誰か?」
「架忠でございます。夜分申し訳ありません」
「かまわん。今開ける」
紫陽は立ち上がり、扉を開けて架忠を迎え入れた。架忠は三十代半ば、身体は一見痩身に見えるがすさまじい膂力を備え、敵陣に一番に切り込む槍騎兵の隊長を務めていた。
「どうかしたのか」
「どうかではありません」
架忠は片膝をつき、紫陽を見上げながら言上する。
「三年間、おそばで戦って来た架忠には判ります。この数日、都が近づくほどに紫陽様はお顔を曇らせておられます」
「そうかな」
紫陽は微笑んで肩をすくめる。
「間違いありません」
架忠は緊迫した顔つきで言い募った。
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