若年寄就任

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 天明3年11月朔日、この日、江戸城の中奥にある御座之間(ござのま)において、ある人事が発令された。 「奏者番(そうじゃばん)、田沼(たぬま)山城守(やましろのかみ)意知(おきとも)を少老に加える」  奏者番(そうじゃばん)とは江戸城の儀式典礼を掌(つかさど)る御役目のことであり、少老とは若年寄のことである。奏者番であった田沼意知はこの日、御座之間にて時の将軍である徳川家治より直々に、新たに若年寄の列に加えるとの上意を受けたのであった。  奏者番から若年寄への昇進…、それは江戸時代も中頃にさしかかったこの時代の譜代大名の順当な昇進コースと言えた。出世を望む譜代大名は奏者番を皮切りに、若年寄や寺社奉行を勤め、大坂城代、京都所司代を経た後に老中へ、というのがこの時代に確立された昇進コースであり、それに従うならば、意知(おきとも)の昇進も順当と言えた。但し、一つだけ問題があった。それは意知は譜代大名ではない、ということであった。  それでは外様大名かと言うと、そうでもない。意知はそもそも大名ではないのだ。未だ、譜代大名の嫡子に過ぎなかったのだ。つまり家督相続前の部屋住みの身である。無論、部屋住みの身でも御役に就くことはできる。例えば、将軍の御側近くに仕える小姓や小納戸(こなんど)といった御役目にある者がそれで、彼らの大半は部屋住みの者で占められていた。また、意知の前職となる奏者番にしても意知と同様、家督相続前の者がいた。奏者番は譜代大名にとって出世の登竜門的なポストであるだけに、譜代大名が詰める雁之間(がんのま)より選ばれることが多かった。雁之間に詰める譜代大名の中からこれはと思われる人物が奏者番に選ばれるのである。但し、雁之間に詰めているのは大名ばかりではない。意知のように家督相続前の者も含まれていた。それゆえ家督相続前の者が奏者番に就いてもやはり何らおかしくはなかった。但し、譜代大名の嫡子の身分で雁之間に詰めるには条件があった。将軍への御目見得(おめみえ)が済んでいる、つまり正式に嫡子と認められているのは当然として、その上で、父が老中、あるいは京都所司代の御役にある者に限り、嫡子の身で雁之間に詰めることができるのだ。そしてこの条件を意知は見事、クリアしたからこそ雁之間に詰めることができたのであった。何しろ、意知の父は今を時めく老中の田沼意次だからだ。
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