若年寄就任

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 もっとも、嫡子の身で雁之間に詰めていた意知が譜代大名の出世の登竜門的なポストである奏者番に選ばれたのはひとえに意知自身の才覚による。そこには父にして老中たる意次の恣意は介在していなかった。今を時めく老中にして、将軍・家治の寵愛を一身に受けている意次と雖(いえど)も、嫡子に奏者番を充分に勤め得る能力がないにもかかわらず、奏者番に取り立ててやれるほど、そこまで力はない。何しろ奏者番の人事は老中の合議によって決まるのだ。老中は意次一人ではない。意次の他にも老中首座の松平(まつだいら)周防守(すおうのかみ)康福(やすよし)に久世(くぜ)大和守(やまとのかみ)広明(ひろあき)、牧野(まきの)越中守(えっちゅうのかみ)貞長(さだなが)ら3人の老中がいた。そして意知(おきとも)の奏者番就任については、老中首座の松平(まつだいら)康福(やすより)がその人事案を提議し、これに久世(くぜ)広明(ひろあき)と牧野(まきの)貞長(さだなが)も賛成したために、決まったことであり、意次は公平性を期すべく、倅(せがれ)の人事案の合議には加わらず、3人に任せたのであった。但し、老中首座の康福の場合、彼の娘が意知の下に嫁(か)しており、康福は意知からすれば岳父に当たるので、康福が婿である意知の人事案を提議したのは身贔屓(みびいき)だとの批判は免れぬであろうし、事実、その通りであり、尚且つ、意知の実父である意次の勧心を買おうとの下心もあった。これではお世辞にも公平とは言えないであろう。  もっとも康福の提議に対して、硬骨の士としてしられる久世広明と牧野貞長が賛成したことで、公平性は担保されたと言って良い。何しろこの二人は相手が意次であろうとも、己の意に沿わぬことには断固として、否(いな)と声を上げる御仁(ごじん)であり、その二人が否と声を上げなかったということは、この二人をして意知には充分に奏者番を勤め得る能力があると、そう判断したからである。ともかく意次を除く彼ら老中が全員、意知の奏者番就任に賛成したからこそ、意知は奏者番に抜擢(ばってき)されたのであり、仮に一人でも反対者がいれば、意次としては将軍・家治の寵愛という伝家の宝刀を抜いてでも、倅の抜擢人事案を潰すつもりであった。  そして意知は彼ら老中の期待を裏切ることなく、奏者番として良く働いた。それは皆が認めるところであった。
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