若年寄就任

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 意知は奏者番としてめきめき頭角を現し、そのことは老中、果ては将軍・家治の耳にまで届いた。家治も意知の奏者番としての働きぶりを認めており、意知が奏者番に就任してから間もなく二年が過ぎようとしていた今年10月頃に今度は家治の方から、 「意知をそろそろ、別の役に進ませてはどうか」  と意知の昇進を口にしたのであった。先の、意知を奏者番に取り立てる人事案は老中首座の松平康福の提議であったので、意次としてもその人事案を潰すのはわけなかった。将軍・家治よりの寵愛を武器にすればそれで済む。  だが今度は違う。何しろ意知の昇進を口にしたのは将軍・家治自身であり、これを潰すことは上意に背くのも等しい行為であった。そこで意次としても今度は棄権という格好で逃げるわけにもゆかず、意知の昇進先について康福らと話し合った結果、昇進先は若年寄と決まったのである。元より、奏者番を勤めている者の昇進先と言えば、若年寄と寺社奉行に限られており、そしてこれより7ヶ月以上前の2月に御鷹御用掛と御馬御用掛を兼帯(けんたい)していた若年寄上席の松平(まつだいら)伊賀守(いがのかみ)忠順(ただより)が亡くなり、爾来(じらい)、若年寄の席が一つ、空席となっていたので、意知を若年寄に進ませることにしたのである。それに対して家治は、「それは良き人事」と即座にこれを了承した。実は家治は意知の昇進を口にした時から、 「老中は必ずや意知を若年寄に進ませる人事案を上申するに相違あるまい…」  とその自信があったればこそ、意知の昇進を口にしたのである。それというのも家治は松平(まつだいら)忠順(ただより)が亡くなってからというもの、老中たちが後任の若年寄につき、人事案を上申する度(たび)に、これを撥(は)ねつけてきたのだ。すべては奏者番である意知を若年寄に進ませるためである。家治の本音としては忠順が亡くなった時点で、意知を若年寄に進ませたいと思っていたが、この時点ではまだ、意知が奏者番に就任してから一年少々しか経っておらず、奏者番から若年寄に進ませるにしても、あるいは寺社奉行に進ませるにしても、最低二年は奏者番として過ごさせる必要があったので、家治はそれをずっと待っていたのだ。そして10月になり、ようやく意知が奏者番に就任してから二年が経過しようとしていたので、そこで初めて家治は意知の昇進を口にしたのであった。
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