若年寄就任

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 それでは家治は何ゆえに意知を寺社奉行ではなく、若年寄に進ませたかったのかと言うと、それは寺社奉行に比べて若年寄の方がより将軍に接する機会が多かったからだ。つまり家治はそれだけ意知のことを買っていたのだ。それも父・意次以上に買っていた。進取(しんしゅ)の気性に富んだ意知のことを家治は大いに買っており、それゆえ本来ならば次期将軍である大納言・家斉(いえなり)の住まう西之丸の若年寄に進ませたいと思ったほどである。西之丸の若年寄として家斉を支え、そして家斉が己の後を襲って本丸の主(あるじ)に、すなわち征夷大将軍となった暁には意知もそれに伴(ともな)い、本丸へと移らせて、若年寄から一気に老中へ…、大坂城代や京都所司代をも飛び越えて老中へと進ませてやろう…、というのが家治が思い描いた構想であった。  だが生憎(あいにく)、西之丸の若年寄の定員は二名であり、現在、酒井(さかい)飛騨守(ひだのかみ)忠香(ただか)と井伊(いい)兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)直朗(なおあきら)は共に健在であり、意知が入り込む余地はどこにもなかった。勿論、一名欠員が生じた本丸の若年寄に、酒井(さかい)忠香(ただか)か、あるいは井伊(いい)直朗(なおあきら)のいずれかを移させることで、今度は西之丸の若年寄の定員に一名欠員を生じさせて、そこへ意知を押し込む…、という手もなくはなかった。実際、家治は本気でそれを考えたほどであったが、しかし、これは西之丸の老中の鳥居(とりい)丹波守(たんばのかみ)忠意(ただおき)の猛反対にあい、断念せざるを得なかった。忠意(ただおき)もまた、硬骨の士であり、 「意知を取り立てたいとの私情を優先させて、何の落ち度もない酒井と井伊のいずれかをお移しあそばされるご所存(しょぞん)か」  忠意は家治にそう迫ったのである。移すといっても、西之丸の若年寄から将軍たる己の居城である本丸の若年寄へと移すわけだから、これは正真正銘の栄転である。何しろ本丸の若年寄ともなれば、旗本や御家人を支配し、何より老中の補佐役として幕政に参与することになるわけだから、これは栄転である。だが同時に、それは意知の将来を考えての私情から発したものであることも事実であり、家治は忠意の諫言(かんげん)にはぐうの音(ね)も出ず、結局、意知を西之丸の若年寄に進ませることは断念して、本丸の若年寄に進ませることとした。
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