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そして若年寄は年功序列重んじる集団である。いや、若年寄に限らず、この時代の役人ならば当然、年功序列を重んじる。それゆえ未だ姿を見せぬ意知を難詰(なんきつ)する忠休(ただよし)に対して皆、うなずいた。ただ一人を除いて。
「まぁまぁ、石見守(いわみのかみ)殿」
加納(かのう)久堅(ひさかた)が取り成すように声をかけた。久堅(ひさかた)は御年(おんとし)72と、若年寄の中でも最年長であった。それゆえ年功序列を重んじつつも、若い者の無作法を笑って許してやれるほどの度量をも持ち合わせていた。もっともそれを言うなら忠休とて御年(おんとし)69であり、久堅(ひさかた)よりも3歳若いだけであったが、しかし、忠休は生憎(あいにく)、若い者の無作法を笑って許してやれるほどの度量を持ち合わせてはおらず、それどころか嫉妬する始末であり、そう考えると人間としての器と年齢は相関関係があるようで実はそれほどないのかも知れない。
それはそうと、久堅は忠休を宥(なだ)めたかと思うと、意外なことを口にした。
「もしかすると山城はもう到着しているのやも知れませぬぞ」
「なに?」
「実は登城の折に供待(ともまち)にて山城…、田沼家の従者を見かけましたゆえ…」
一部の例外を除き、大名や旗本は大手三之御門に通じる下乗橋の手前、下馬所というエリアで駕籠(かご)、あるいは馬からおりなければならなかった。今、この若年寄専用の下部屋(しもべや)にいる彼らもやはり下馬所にて駕籠からおりたわけが、この下馬所には供待(ともまち)という待合所があった。これは大名や旗本の従者が主(あるじ)が御城より下城、戻って来るまでの間、待つ場所のことであるが、誰もが利用できるわけではなく、御三家や老中、若年寄の従者に限り、この供待(ともまち)なる待合所を使うことが許されていた。もっとも待合所と言ってもそんなご大層(たいそう)なものではなく、土の上に小屋を建てただけの粗末(そまつ)な代物(しろもの)であり、それゆえ従者は茣蓙(ござ)を敷かなければならなかったが、しかし、それでも雨風を凌(しの)げるので、供待(ともまち)を使うことが許されない従者に比べて恵まれていることは事実であった。その供待(ともまち)に目がいくあたり、久堅の老練さが光った。
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