ショートストーリー

3/4
前へ
/4ページ
次へ
春の野に菜の花が咲く頃 二人は婚前旅行に出かけることにした 独身最後の旅になるかもしれないから 少し奮発して、3泊4日の旅に出る 小川の流れる音が聞こえる旅館の部屋で 聡は、永遠(とわ)の愛を誓うかのように 杏奈の目の奥をじっと見つめて、プロポ-ズした 鼻の奥がツンとする その日、聡が杏奈に渡したものは、婚約指輪ではなく 聡が用意した二人で暮らすマンションの部屋の鍵だった 好天に恵まれた旅の最終日 レンタカ-を運転し続けた聡に 多少の疲れがあったのだろうか カ-ブの続く山道で、スピ-ドを出し過ぎていた対向車をよけきれず 二人を乗せた車は、谷底へと落ちた 聡は病院へ運ばれた1時間後に亡くなった 杏奈は、足を骨折したものの命を失うことはなかった 咄嗟に杏奈を庇おうとした聡のハンドル捌きがあったから 世の中の全てに現実感が失せ 余白だらけの1か月が過ぎる 骨折の治った杏奈は 聡の契約したマンションの部屋へ向かう 聡の両親ですら知らない部屋 鍵を開け部屋へ入ってすぐに感じる聡の気配 廊下を抜けて、居間のドアを開ける テ-ブルの上にあったのは 聡の名前が記入され、印を押してある婚姻届の用紙と婚約指輪だった そこには、聡の強い意思があった 「聡……」 私は、深い、深い森の中で迷ってしまった子供のように、その場に蹲るだけ しばらくして、杏奈は静かに聡に語りかける 「聡は、この部屋で私が来るまでずっと待っていてくれたのね」 その日、杏奈はその部屋に泊まった きっと、聡が会いに来てくれると信じて
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加