二十三冊目 届けたい気持ち

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【第百九十面 私のお茶が飲めないのですか?】 「なぜここが分かったのです」  カウンターにティーカップとソーサーを置いて、逃げるようにソファに座ったアーサーさんが訊ねる。 「おや、コーヒーはないのかな」 「おやおや、私のお茶が飲めないのですか?」 「ふふふ、紅茶も好きだよ。ありがたくいただくとも」 「ふふ、熱いのでお気をつけて……」  威圧感漂う微笑が二つ向き合っている。とても怖い。そんな笑顔でぼくを挟んで会話しないでほしい。  イグナートさんはソーサーの縁を指先で撫でている。細い指に着けるには大きすぎる指輪がごろごろと光っていた。太い金色の塊のようなものや、宝石がいくつもくっ付いているものもある。常々疑問に思っていることだけれど、指輪同士がぶつかって指を上手く動かせないなんてことはないのだろうか。 「コーカスレースの情報網を舐めないでもらいたいね。……と、言いたいところだけれど、今回は我々だけではさすがにお手上げだった。仕方ないから贔屓にしてる情報屋さんを頼ったんだ。そうしたら、帽子屋さんが街にいることが分かった」 「誰にも知られないようにしていたはずです。どこからそのような」 「家の様子と兄の様子を見て考察しただけだから外れているかもしれないと彼は言っていたけれど、当たりだったようだね。さすが情報屋さんだ。もっと贔屓にしてあげよう。金ならいくらでもある」  ルルーさんがなりたくないと言っていた嫌味な金持ちそのものの下劣な笑みを浮かべて、イグナートさんはティーカップを手に取った。  どうやら大和さんがアーサーさんの情報をコーカスレースに提供したらしい。あれだけ念を押されていたのに、お金に釣られてほいほい話してしまったのか。ニールさんに知られたらとんでもないことになりそうだから言わないでおこう。 「帽子屋さんが森から姿を消したのと同じ頃に引っ越してきた人物がいないかどうかを探して、そうしてこの辺りに目星を付けた。金髪碧眼の若い男と黒髪の少年が越してきた、名前はマーリンとアレクというらしい、ということも調べ上げたよ。門番さん達にも話を訊こうとしたんだけれど、その前に嫌がられてしまった。でも君達を見付けられたから大当たり」 「本当に恐ろしいですね、コーカスレースは」 「何でも屋だからね。何でもできるように何でも調べているだよ。えへん」  褒め称えなさい、と言わんばかりに胸を反らせて偉そうに言う。そうしてティーカップをソーサーに置いた。……あれ? 今、イグナートさんは紅茶を飲んだだろうか。カップを持ち上げて、そのまま香りだけ堪能して下ろしたように見えた。  指輪がぎらぎらしている指がカウンターを撫でている。日によって指輪もピアスもブローチも他の色々なアクセサリーも、どれもがころころと姿を変えている。しかし、右手の人差し指に嵌められた赤い宝石の指輪だけはいつも変わらずそこにある。あれはきっと大事なものなんだろうな。  ぼくの視線に気が付いたのか、イグナートさんは人差し指を立てて口元に寄せる。加えてウインクまでしてきた。飲まなかったことを密告するなということだろう。アーサーさんは(ドミノ)を視界に入れないようにひたすら自分のティーカップを見下ろしているので、ぼくが言わない限りは気が付かない。 「私に何か用があるのでしょう。手短にお願いしますよ」 「もちろん。帽子屋さんが怯えて震えて逃げ出さないうちに……」  暖炉の中で薪が爆ぜた。 「単刀直入に言うよ。帽子屋さん、君の家には何か秘密があるね?」 「秘密? 人は皆何かしら秘密は持っていると思いますが……聞きたいのはそのような話ではないようですね」 「チェシャ猫さんが負傷したと聞いた。昨日は我々も酷い目に遭ったし、人間(トランプ)にもドミノにも甚大な被害が出ている。本当はチェシャ猫さんに話を訊きたかったのだけれど、病院に乗り込むのはよくないと思ってね。……クロックフォードの家は大きな秘密を抱えているのではないかな? 大丈夫、誰にも言わないから私にだけ教えておくれ。困っているのなら力にだってなってあげるよ」  狙いを定めたカモを逃がさんとする悪徳商人みたいだ。言葉でできた指で絡めとるように言って、イグナートさんは人の良さそうな笑顔を浮かべた。優しそうに見えるけれど、あれは悪い笑顔でもある。  優しさの奥に怪しさを隠した顔はアーサーさんには見えていない。目を合わせていないからこそ、詐欺師めいた笑顔に騙されることもない。 「貴方はいつもそうですね。その甘言で何人手玉に取って来たのです」 「これも私が苦労して会得した生きる術だからね。純粋な幼子だったのにとチャドじいさんが悲しんでいたけれど、こういう手段を教えたのはあの人自身だ。それで、帽子屋さんは何か心当たりはないだろうか」  アーサーさんは静かに紅茶を一口飲む。  クロックフォード家の秘密というと、ぼくが出入りしている鏡のことだろうか。それとも、詳細が分かっていない母親か、失踪して亡くなったという父親か。ニールさんの「本気」というものがものすごいらしいというのも気になるところではある。一番可能性が高いのは、やはり鏡だろうか。以前イグナートさんも興味を持っていたようだった。  けれど。けれど、あの時のイグナートさんは少し変だった。まるであの体の中に全く別の人が入っているかのような言動だったし、直後に彼は吐血して倒れている。自分自身が大烏(レイヴン)であるにも関わらず、レイヴンには言うなというようなことを言っていたところも引っ掛かるんだよね。 「貴方が知りたいということを知っていたとして、私が言うと思いますか」 「いいや、言わないだろうね。もう少し私のことを信用してくれないだろうか」 「コーカスレースのことは頼りにはしていますが……」 「駄目かぁ……。調査したこととちょっと照らし合わせたいことがあったのだけれど」  顔を上げたアーサーさんがカウンターの方を見た。その視線はばっちりとイグナートさんに向けられている。 「何です? 内容によっては考えないこともないですが」 「おや、それはありがたい。ふふ。こうして誘えばその気になってしまうだろう?」 「あっ……。あぁ……私としたことが……。えぇ、ですが、これは貴方から話を聞き出そうとしているのですよ? 嵌まっているのは貴方の方では?」  微笑から威圧感が放たれている。とても怖い。  自分の家とコーカスレースが調べたこととの繋がりを知ろうとして、アーサーさんはイグナートさんのことを見ている。ドミノに対する恐怖よりも興味関心の方が勝っているのだろう。 「イグナート、私のお茶が飲めませんか?」 「えっ。えっ、あ。の、飲んでるよ。美味しい美味しい。さすが帽子屋さんだ」 「先程から全然手を付けていないように感じられるのですが」 「飲んでいるよ。飲んでいるとも……」  イグナートさんはティーカップを持ち上げる。けれど、口を付けることなくソーサーに置いてしまった。口元に手を添えながらふらふらと立ち上がる。 「すまない、少々気分が優れないんだ。あの……。お手洗いを借りても?」 「はい、廊下の左手に……」  これはまさか例の発作か何かなのだろうか。心配だな。  案内をしようとしてアーサーさんが席を立った。そしてそのままイグナートさんに歩み寄る。ところが、あと少しというところで立ち止まってしまった。 「ぼくが案内しますよ。アーサーさんは座っててください。それ以上近付けないみたいだし……」 「う。すみませんアリス君、お願いしますね」  では行きましょう、とぼくが差し出した手に指輪ぎらぎらの手が触れることはなかった。  煌びやかな金や銀に赤が散る。崩れ落ちるように膝を着いてイグナートさんは蹲った。口を押える指の間からはぼたぼたと血が零れ落ちている。 「なっ、何事です!? 絨毯っ、絨毯が! いえ、そうではなくて! どうしたのです!」  今の状態では返答はできなさそうだ。背中でもさすってあげたいけれど、翼に手を近付けるとものすごく嫌がられるしものすごい剣幕で怒られるので手を出せない。何もできないまま、ただただ落ち着くのを待つことしかできない。  十数秒、いや、数十秒。数分。どれくらい経っただろうか。しばらく苦しそうにしていたイグナートさんは、ゆっくりと呼吸を整えてから立ち上がった。  あれ? なんだか、雰囲気が変わったような……。 「昨日は少し張り切り過ぎた。この体に随分と無理をさせてしまったようだな……」  口の周りの血を質のいいジャケットの袖で拭い、不敵な笑みを浮かべる。漆黒の瞳に一瞬真っ赤な炎が揺らいだように見えた。
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