二十三冊目 届けたい気持ち

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【第百九十一面 代償】 「彼を守ることが彼への負担に繋がるのは厄介だな」  まるでそれが自分の体ではないかのように、手や足を見ながらイグナートさんは言った。 「人の子よ、レイヴンはもったいぶって濁しているが、私が直接訊ねてやってもいいのだぞ。汝の家に摩訶不思議な鏡はないだろうか、と」 「……鏡? いえ……存じ上げません。それよりもどうしたのですか。何やら様子がいつもとは違うようですが」 「とぼけるなよ帽子屋。私はこの目で見たのだからな、そこな少年が鏡を潜って現れるところを」 「え」  アーサーさんはぼくとイグナートさんのことを交互に見る。確かに、ぼくは夏に姿見を潜った直後にイグナートさんと鉢合わせしている。あの時も今と同じように不思議な雰囲気だった。 「汝がそれをレイヴンに言うか言わないかは自由だが、私は知っているからな。そして、さらに詳しいことも知っている。されどそれを汝らに教えるつもりはないし、レイヴンに示してやるつもりもない。私はあくまで部外者だ。あくまで異邦人(バックギャモン)なのだから」 「出身がプラーミスクだという話は聞いたことがありますが、現在の貴方はこの国の籍を持つ(ドミノ)でしょう。異邦人を語るのにはやや無理があるのでは」 「帽子屋よ。今こうして話している私が、イグナート・ヴィノクロフだと思っているのか?」  やはり別人なのだろうか。目の前の男は、宝飾品になんて全く興味などないと言った風に退屈そうに指輪を眺めている。そしてこちらを向き、くつくつと笑いながら目を細める。  よく分からない相手に対してぼくが優位に動けるとは思えない。ここはアーサーさんに頼みたいところだけれど、彼もどうしようかと考えているようだった。  ぼく達の出方を窺いながら、謎の男はその場に屈み込んだ。絨毯に溜まっている血液にそっと手を翳したかと思うと、えいやっと手を一振り。すると、絨毯の上に一瞬火花が散った。絨毯の毛を焦がさずに、見事に吐き出されたものだけが灰と化している。多少染み込んでしまっていたと思うけれど、その痕はどこにも見受けられない。  なんだこれ。  どう表現したものだろうか。端的に表すとすれば、文字通りの神業。奇跡のようだった。 「これで後片付けも簡単……! 褒め称えてくれて構わないぞ、人の子よ」 「貴方……貴方は、何なのです」  謎の男は不敵に笑う。赤く染まっている色白な手が胸元に寄せられた。そして鼓動を確かめるように、ごつごつした指輪ごと手を押し当てる。赤く滲んだシャツがぐしゃりと水分を含んだ音を立てた。 「私はただ、きまぐれにこの体の持ち主を助けただけだ。助けた責任がある。だから、守り続けている。こうして体を借りる度に彼に負担をかけてしまうのは申し訳ないとも思うが、私が与えたものと比べれば随分と安い代償だろう。血反吐を吐きながらでも、生きているのだから。……無駄話をしていては体に負担をかけるばかりだ。手短に、簡潔に、一つだけ教えてやろう。感謝するがいい、人の子よ」  漆黒の瞳に真っ赤な炎が揺らいだ。青や緑の煌めきを湛えている翼には、赤や黄色がほとばしったように見えた。ここにいるのは最早大烏ではない。この炎はまるで……。 「影の兵団はどの陣営も揃ってアリスなる者を探している。されど、白の陣は汝のことも探しているぞ、帽子屋」 「は……?」 「鏡にも気を付けることだな。あの鏡は……うっ……ぇ」  口の端から血が垂れる。 「くく……。後はレイヴンに任せよう。あぁ、イグナート……すまないな、本当に。苦しい思いを、させてしまって……。……君の苦悶に満ちた顔も私は好きだがなぁ!」  貧しい農民を踏みにじる性悪な富豪のような下衆の極みを、これでもかこれでもかと濃縮して顔面に貼り付けたような表情だった。普段のイグナートさんも嫌味な成金みたいな素振りを見せるけれど、そんなものは比じゃない。嫌悪感や不快感を抱くに十分なものだ。  知人の姿をとった知らない男は下卑た笑みを湛えたまま口を押えてしばし佇んでいたが、突然電池の切れたおもちゃのように倒れ込んだ。  ついっ、と袖を引かれた。アーサーさんが不安そうにぼくのことを見下ろしている。 「アリス君……。言い表せない恐怖を感じます。貴方は大丈夫ですか」 「大丈夫、ではないです。ちょっと怖かったので。イグナートさん自身の体も心配だし……」  倒れ伏す体に覆い被さっている翼が震えた。もうその羽には赤や黄色の光は混ざっていない。綺麗な夜空のように、漆黒に青と紫、時々緑が煌めいている。  ゆっくりと体を起こして、イグナートさんは小さく呻いた。咄嗟に口に当てられた手に血が一筋伝う。 「……う。う、え……。とてつもなく気持ち悪い……」 「あっ、あぁ案内! 案内するんでしたよね! こっちですこっち」  先程のことは覚えていないようだった。前回もそうだったので、おそらく不思議な雰囲気になっている時の記憶は本人には残らないのだろう。  今にも目を回して倒れてしまいそうなのをトイレに押し込んで、ぼくはリビングに戻った。ソファに座ったアーサーさんは神妙な面持ちである。 「あれが……あれがただの発作で、気にするほどのものではないと言うのですか。あのようなもの、考えずともおかしいということは分かります……」 「アーサーさん、火の鳥って聞いたことありますか?」 「火の鳥?」  漆黒から燃え上がっていたのは炎のように見えた。それに、ぼく達のことを「人の子」と呼んでいたから、自身は普通の人ではないということなのだろう。  世界中に火の鳥の伝説は様々な形で存在している。中でもぼくが関心を持っているのはロシアにおける伝承だ。理由は至極簡単で、火の鳥のことを初めて知ったのがロシアの伝承を元にした童話だったからである。  不思議な力を宿し燃える羽を持つ火の鳥は常に人々の注目を集める。その美しさがもたらすのは繁栄か、破滅か……。不死鳥だとか、血を飲めば不老不死にあやかれるとか、そういう話がよく語られている。  もしも、イグナートさんの背後に火の鳥がいるならば。先程の燃えるような羽も、ものを焼き尽くして浄化する技も、明らかにおかしいレベルの体の頑丈さも説明がつく。……ような気がする。  アーサーさんは「ふむ」と小さく呟く。 「火の鳥ですか……。プラーミスクの昔話にその名前が出てきますね」 「プラーミスク……。えっと、南東にある島国でしたよね」 「はい。イグナートの故郷でもある、キャロリング大陸地方南東の国です。常に山々が煙を上げ続けているため、またの名を火山国家といいますね」  立ちっぱなしだったぼくはソファに座ってアーサーさんと向かい合う。自分では見えないけれど、きっと今ぼくの目は好奇心に満ちているのだろう。目が合った瞬間、「ふふっ」と笑われてしまった。 「絵本のページを早く捲ってくれという小さな子のようでかわいらしいですね」 「そんなにきらきらしてます?」 「ふふ……。かわいいかわいい……。……火の鳥はプラーミスクの火山の守り神とされていて、各所に歴史的価値のある祠や神殿があるそうですよ。燃え盛る炎の体を持つ巨大な鳥で、その血には不老不死や滋養強壮の力があるとか、ないとか」 「まさに神様ですね」 「ですが、同時に化け物でもあるのです」  アーサーさんは空っぽになっているティーカップの取っ手を軽く指先でなぞった。 「火の鳥はプラーミスクの危機に降臨し国を守ると言われています。なので、先の大戦で猛威を振るったとか、振るわなかったとか……。燃える翼から放たれる熱風や口から吐き出される火炎が多くのものを焼き払ったそうです。けれど、昔話の不思議な鳥ですよ? そのようなものが実際に存在しているのでしょうか……。同じく昔話に過ぎなかったジャバウォックが実在するのなら、もしや、とも思うのですが。……ところでアリス君、なぜ突然火の鳥の話を?」 「えっと……。イグナートさんの羽が燃えてるみたいに見えたので……。言動も人ではないようだったし……。何か、火の鳥と関わりがあるんじゃないかなと」  なぜ火の鳥の名をおまえが知っているのか、ということに関しては訊ねられなかった。おそらく、またぼくが自分の世界の何かと重ね合わせて訊ねてきたのだと理解されているのだろう。ぼくがこの世界の人間ではないことを知っている人が相手であれば、読んだことのある本の話を振っても問題ないと考えてよさそうだ。なんて、今更だけれど。  廊下の向こうから大きな音が聞こえてきた。物がたくさんひっくり返る音と、悲鳴。 「イグナートさんかな……。見て来ますね」 「あ、待っ、待ってください。私も行きます。客人が体調不良になっているのを、家主が助けずしてどうするのです。大丈夫、大丈夫。爪も牙もないのですから、翼さえ見なければ……」  あの大きな翼を視界に入れないのはかなり難しいと思う。  アーサーさんと連れ立って廊下に出ると、イグナートさんが倒れているのが見えた。近くにある棚が傾き、中身が飛び出している。ふらつきながら歩いていたところ激突したのだと思われる。 「大丈夫ですか!」 「うぅ……」  体を起こしたイグナートさんは翼と腕で自分を包み込むようにして小さく震えていた。苦しいのか、痛いのか、漆黒の瞳は涙に濡れている。そして、意識を手放しながら腹心の名を呟いた。 「ハワー、ド……」
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