二十三冊目 届けたい気持ち

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【第百九十二面 待っていますね】  ノッカーが鳴らされたのは、イグナートさんが意識を失い倒れた直後だった。 「アリス君を迎えに来たんですけど」  クラウスはちらりと漆黒の翼に目を遣ってから、アーサーさんの方を向いた。 「えーと……。チェシャ猫さんはもうだいぶ落ち着いています。怪我よりも疲労の方が酷い感じなので、体を休めるためにしばらく入院することになりましたが……」 「エドウィンからだいたいのことは聞いています」 「アリス君を連れて森の家まで行けばいいんですよね。あの、アリス君も街に置いておいちゃ駄目なんですか? ブリッジ公はアリス君も街にいると思っているみたいですけど。あと、この辺りのご近所の人とかも……」  クラウスの言いたいことはよく分かる。けれど、ぼくがずっと街に居続けることはできない。ぼくは自分の家に帰らなければならないし、学校もある。自分の暮らす世界と行き来するために、猫と帽子屋の家に拠点を置く必要がある。  アーサーさんは「そうですね」と頷く。 「アリス君も街に居た方が安全だということは分かります。ですが、この子は私以上に街に馴染みがありません。街を追われ……。それ以来ずっと森で、(ドミノ)に紛れてひっそりと暮らしてきたのですから。中学生と雖もまだまだ子供です。あまりストレスなどは与えたくありませんから。……私はもう毎日人間(トランプ)に囲まれて精神的にぼろぼろですよ。ようやく慣れてきましたけどね」 「んー。そうですか……。うーん、それでいいのかなあ。なんだか上手く丸め込まれているような気がするよう」 「気のせいでは?」 「そっかー。気のせいか! そうですね! うんうん」  クラウス、もう少し人を疑った方がいいよ……。そのうち悪質な詐欺に遭うよ……。  納得した様子のクラウスのことを見てアーサーさんはにこりと微笑んだ。なんて怖い笑顔なんだろう。 「そこで寝てるのはレイヴンさんですか?」  アーサーさんの背後を覗き込むようにしてクラウスは言った。イグナートさんはぼくの足元で翼に包まれながら沈黙している。ぴくりとも動かないけれど、びっくり仰天しながらもぼくとアーサーさんでしっかり確かめたので息はある。  医者に診せてよくなるものではないと以前ハワードさんが言っていた。病院に連れて行ってあげたい気持ちで山々だけれど、そうもいかないのはちょっぴりもどかしいな。見るからに具合が悪そうなのに、何もできずにただ見ていることしかできないなんて。 「一つお願いがあるのですがよろしいでしょうか」 「はい、何ですか」 「アリス君を家まで送った後、岩の広場へ向かっていただきたいのです。ハワードにここの住所を伝えてください。なるべく早く飛んで来るように、と」 「いいですけど……。レイヴンさんどうしたんですか?」 「仕事で街まで来た帰りにうちに寄ったそうなのですが、疲れていたのか眠りこけてしまって」 「なるほどー! コーカスレースもずっと忙しそうですもんね! 昨日も事務所が襲われたらしいし……」 「事務所? ねえクラウス、事務所が襲われたの?」 「うん」  襲撃を受けたドミノの対応に追われたのだとばかり思っていた。どうやらコーカスレースの事務所が直接攻撃を受けていたらしい。色々と調べ回っているのを向こうにも知られているのだろうか。ぼくが敵ならばコーカスレースはなるべく早めに潰しておきたい。  昨日被害に遭った場所は偶然襲撃されたのではなく、意図的に狙われた可能性があるということか。では、なぜ猫と帽子屋の家が襲われたんだろう。……やっぱり偶然なのかな。  そろそろ行こうか! とクラウスはぼくに向かって手を差し出した。 「おれ、後でまたチェシャ猫さんのところに行かなきゃいけないんだよね。遅れたら先輩とかに御小言言われちゃうし……。んと、まだ帽子屋さんと話すことあったかな?」 「いや、特にないよ」 「じゃあ表に車を停めてあるから、コートとか着たら出てきてね」  マフラーをもふもふとしてからクラウスは外に出て行った。なんだかかわいらしい動きだったな。 「それじゃあアーサーさん、ぼくは森に戻りますね。また何かあったらエドウィンやクラウスが報告に来ると思います。何もないのが、一番だけれど……」 「アリス君」  ぼくはリビングに戻り、ソファに引っ掛けていたコートを手に取った。袖を通そうとしたところでアーサーさんに声をかけられる。  眼鏡のレンズ越しに、銀に近い水色の瞳がぼくを見据えていた。ブリッジを軽く押し上げる手が微かに震えている。怯えているのではない。あれは、悩んでいるんだ。 「ここは……。ここはもう、貴方が気軽に遊びに来られる場所ではありません。貴方の安全のためにも、ご家族やそちら側のご友人に辛い思いをさせないためにも――」 「ワンダーランドには来るな、ですか」 「……はい。貴方は自分の世界に居場所がないと言っていました。ですが、それも過去の話です。最近は学校が楽しいと笑顔で話してくれますよね。貴方の居場所は、そちら側にもある。わざわざこのような危険な場所に来る必要なんて、もうないでしょう?」  ワンダーランドは逃げ出したぼくのことを受け入れてくれた。逃げた先にある場所ではなく、ここにいてもいいんだよと言ってくれる、ここにいたいと思える場所がワンダーランドだ。確かに学校にも居場所はできた。でも、それとこれとは話が別なのだ。  一年半ほぼ毎日のように通い続けた場所に「はい、分かりました。さようなら」なんて言えるわけがない。日常の一部が欠落する。友人との交流が途絶する。ぼくの脆弱なメンタルが耐えられるとは思えない。ここは、自分の暮らす世界と同じくらい大切な場所なのだ。 「嫌です」 「アリス君……」 「我が侭だというのは分かっています。でも……」 「二度と来るなというわけではありませんよ。諸々が落ち着くまでの話です」 「いつ落ち着くんですか」  アーサーさんは答えなかった。そろそろと視線が逸らされる。 「ずっと昔からチェスはこの国にいて、人々を襲っている。そんなのが落ち着く時なんて来るんですか」 「キングの駒を倒せば陣営が丸ごと崩れると聞いています」 「全部の陣営が崩れ去るまで、ぼくにここに来るなってことですよね。いつになるんですか、そんなの。危ない状況になっているということは分かってるんです。だから、夕方になったらちゃんと帰るようにしてるし、ワンダーランド内でなるべく一人にならないようにしています。だって、だってワンダーランドに来られなくなったら……。ここは日常の一部なのに……。ぼくから居場所を奪うつもりなんですか。そんなの、ぼくのことをぼくの世界から追い出した奴らと――」 「アリス君! 私の、私の言うことを聞いてください!!」  ぼくは反射的に後退る。  珍しく声を荒げて、本人が一番びっくりしているようだった。大きな声を出した余韻を残して微かに開かれた口元には、人間離れした鋭い犬歯が覗いている。心なしか瞳孔が少し大きくなっているようにも見えた。 「……ナオユキ君、お願いだから私の言うことを聞いてください。あまりにも聞きわけが良くないと、私、怒りますよ」  ゆっくりと息を吐いてから、アーサーさんは低い声でそう言った。目付きが鋭くなっている。こういう顔をするとニールさんにそっくりだ。 「っ、ごめんなさい……。す、すみません……ちょっと、敏感になってるのかな……居場所とか、そういうの……」 「いえ……。私も少しきつい言い方をしてしまったかもしれません。ですが、これは貴方のためなのです。分かっていただけませんか。……似たやり取りで兄さんに激しく抵抗した私が言うのも、なんというか、その、言葉に力がないかもしれませんけれど……」  あぁ、そうだ。嫌だ嫌だと駄々をこねていたのはぼくだけではない。家から出て行けと言われた時のアーサーさんの動揺した様子が思い出される。あの時は家庭が崩壊するのかと思った。  ぼくのため、か。  自分だけ安全な場所に行ってみんなを見捨てる形になったら嫌だなと思っていたけれど、ぼくが無事であることをみんなが望んでいるのならばそれに従うべきだろうか。きっと、アーサーさんもたくさんたくさん考えて出した答えなんだ。 「どうしても、どうしても来たくなったら、ちょっとだけ様子を見に来るのはいいですか。家からは出ませんから」 「あまり甘やかしたくはないのですけれど……。いえ、ここは私も心を鬼にして……! 駄目です。来ないでください」 「そこをなんとか。じゃあ、アーサーさんの部屋からも出ませんから」 「店頭で値引きをしているのではないのですよ。駄目なものは駄目です。本当に、怒りますからね」  語気を強めてアーサーさんは言った。いたずらした子を叱っている先生みたいだな、なんてのんきなことを思い付いたぼくの頭はもう少し場の状況を理解してくれ。 「うー。……わ、分かりました。仕方ないです……。負けました」 「事態が早く落ち着くことを祈るばかりです。また……。また、ティータイムにお会いしましょう」 「はい。楽しみにしてますね」  さよならは言わない。ぼくは小さくお辞儀をして、コートを引っかけてリビングを後にした。「待っていますね」という声を背に玄関を開ける。  穏やかな昼下がり、またみんなでお茶会出来る日が来ますように。
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