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【第百九十三面 どうすればいいんですか】
蒸気自動車の運転席に座るクラウスがうとうとと船を漕いでいる。声をかけると、「ひゃあ」と悲鳴を上げて慌てた様子で周囲を見回した。
「あわ……。アリス君、遅かったね。やっぱり帽子屋さんと何かお話あったの?」
「ちょっとね。よし、行こうか」
「おや! 今度は弟の方のカザハヤさんだ!」
「やあ! カザハヤさん弟!」
ぼくが乗り込んだタイミングでトゥイードル兄弟が家から出て来た。
「こんにちは門番さん。今日は非番なんですね」
「さっき兄の方に伝え忘れてしまったんだけど」
「これを兄の方に渡してくれるかな」
「まあ君もしっかり読んでくれよ」
「お父さん……カザハヤ中将にも共有してくれるとありがたい」
クラウスはダミアンさんから封筒を受け取る。そのまま開けようとしたけれど、ディーンさんに阻止されてしまった。おそらく極秘の情報か何かでも書かれていて、ぼくが目にすると困るのだろう。
早くしまえ早くしまえ、と双子にまくしたてられながらクラウスは封筒を鞄に押し込んだ。
「大事なやつなんですか?」
「そうだよ!」
「そうだとも!」
「重大も重大、何を隠そう……」
「こら! こらディーン! ダメ!」
「しまった!」
「余計なこと言っちゃう前に撤退! じゃあねカザハヤさん!」
ひらりと手を振り、ふくよかなお腹を揺らして踊りながら双子の門番は家に戻っていった。クラウスは不思議そうにその様子を見送ってから、蒸気自動車のハンドルに手を掛ける。
「うぅうー。どんな内容なのか全然予想できないしおれにはよく分からないから、ちゃんと家に帰ってから父さんと兄貴と一緒に確認するよぅ」
何が書かれているのだろう。気になるけれど、王宮の内部情報まで探ろうなんてことは考えていないので訊かないでおこう。
座席に身を預け、降り始めた雪を軽く目で追う。今日はこの後たくさん積もりそうだな。
「じゃあ、おれはコーカスレースのところに行って来るね。またね、アリス君」
「雪、強くなってきたから気を付けてね」
「うん!」
にこやかに手を振ってクラウスは北東へ向かって行った。この雪の中、あの不安定な運転で岩の広場までどれくらいかかるのだろうか。イグナートさんの元へ早くハワードさんを向かわせて安心させてあげたいな。
捲れ上がっている石畳の間を縫って進み、玄関のドアに鍵を差し込む。えいっ、と鍵を回すがドアはうんともすんとも言わない。出て来た時はちゃんと鍵を掛けたので、帰って来た今は鍵が開くはずだ。しかしもう一度回してみても、がちゃりという音は聞こえてこない。
おかしいな。もしかして開いてるのかな。ルルーさんやナザリオが来ていて、鍵を掛け忘れたとか。あれ? あの二人は合い鍵を持っていたっけ?
開いている可能性に賭けて鍵を抜いてドアノブを捻るが、それでもドアは動かない。ぼくがノブを引っ張る動きに合わせて軋んだ音が聞こえてくるだけだ。
「家が歪んだせいでドアがずれちゃったのかな……」
どうしよう。このままだと帰れない。
「どうかしたのか、アレクシス少年」
雪を踏みしめる足音に振り返ると、ジェラルドさんとキャシーさんが立っていた。暖かそうなコートに身を包みばっちりと防寒しているジェラルドさんに対して、キャシーさんはコートを纏っているものの前が開いており中は相変わらず肌の露出が多い。
「ここも襲われたんだね。アタシ達のパトロールが足りてないのかしら」
「今回の件は昨夏の地下鉄襲撃事件と同様に俺達だけで対応できるものではなかった。仕方ないだろう」
「夜間のチェスだけならまだなんとかならなくもないんだけど、昼間のバンダースナッチまでは対処しきれないのよね。チェシャ猫さんと帽子屋さんは? 無事?」
「ニールさんがちょっと怪我してしまって街の病院に……。えっと、アーサーさんも付き添いで……」
ジェラルドさんの無表情な紫の瞳がじっとぼくのことを見ていた。
疑われている。そう感じた。ただの予感だけれど、警戒するに越したことはない。キャシーさんは相方の様子に特に気が付いていないようだ。ジェラルドさんがぼくにこんな目を向けるのは、チェスハンターとしてではなくジェラルド・ラ・フォンテーヌ個人としての意思なのだろうか。彼といるといつも緊張するな。
ぼくはドアノブを改めて捻る。
「ぼくも街に付いて行って、今戻ってきたところなんです。家の片付けもしなくちゃいけないし。でも、どこか歪んじゃったのかドアが開かなくて」
「なるほどなるほど、それで家の前に佇んでたってわけね。いいわよ、任せなさい」
キャシーさんが一歩前に出た。ぼくに少し移動するよう指示を出してから、大きく足を振り上げる。翻ったコートの中から程よく筋肉の付いた足が覗く。
「ていっ」
そして、ドアは見事に蹴破られた。
蹴破られてしまった。壊れた。
「うわー! ちょっ、ちょっと! 壊れちゃったんですけど!?」
「これで家の中に入れるねー。よかったよかった」
「いやいやいやいや、壊れたんですけど!」
「よかったなアレクシス、これで家に入れるぞ」
「いやー!?」
絶対にニールさんに怒られる。
「ジェラルド、次はどこを見に行くんだったっけ」
「次はここから少し北の……」
「ま、待って! まだ行かないで! これ、これどうすればいいんですか。雪が入って来ちゃうし、戸締りできないし!」
「閉めればいいのよ。閉めて鍵かけておけばいいの。また開ける時に蹴飛ばせばいいでしょ」
なんて乱暴な。というか無責任な。
「うん……。少しやり過ぎた気もするけど仕方ないじゃないの。それとも、君はここで凍えていた方がよかったのかしら」
「帽子屋が帰って来たらどうにかしてもらえ。……帰って来るのならな」
「お見舞いが終わったら帰って来るんじゃないの?」
「ふん、どうだかな」
無表情に僅かに嘲笑が混じっている。ジェラルドさんの前で余計な動きはするべきではない。ここはおとなしく家に引っ込んだ方がいいかもしれない。
靴に付いている雪を軽く落とし、ぼくは家に入った。壁から外れているドアをうんしょと動かす。
「そうですね、アーサーさんが帰って来たら直してもらいます。ありがとうございました」
「うんうん。またねアレクシス君」
キャシーさんは鬣のような髪を揺らしながら踵を返した。獣道に向かって歩き出すが、ジェラルドさんは家の前に残っている。おうい、と呼ぶキャシーさんの声とは違うタイミングで馬の耳がぴくりと動いた。そして、長身であることに加えて高いヒールの靴を履いているユニコーンは身を屈めてぼくに顔を近付けてきた。長いポニーテールから髪が一房肩に滑り落ちる。
ぼくにだけ声を届けるための姿勢なのだろう。分かっているけれど、圧迫感があってちょっぴり怖い。額から伸びる角が刺さりそうだ。
「家の中に誰かいるみたいだな」
「えっ」
「物音が聞こえた」
「空き巣かな……。どうしよう……」
怖い人と鉢合わせしてしまったら、ぼくはどうなってしまうんだ。ワンダーランドから出るまで付き添ってもらいたいけれど、ジェラルドさんを姿見の前に連れて行くことはできない。
おそるおそる廊下を振り向いたぼくの視界に青い光が映り込む。この青は……。
「お! 帰って来たんだな。一緒にいるのは……」
廊下の角を曲がって姿を現したのは大和さんだった。ぼくとジェラルドさんのことを見付けて触角めいた跳ねた髪がぴょこんと動く。
雪の降り積もる季節。大和さんは着流しではなく袴姿で、その上にトンビコートを羽織っていた。足下も下駄ではなくブーツである。なんだか近現代文学の登場人物みたいな雰囲気だ。トンビをばさばさ翻しながら玄関に向かってくる。
「馬! 馬じゃないか!」
「ユニコーンだ、芋虫。随分と大きな羽虫が入り込んでいたみたいだな」
「おかえりアレクシス君。待ちくたびれちまったぜ」
ジェラルドさんは少し驚いた様子で大和さんのことを見ていた。びっくりというよりも、意外に思っているといった感じだ。
「……芋虫、随分と思い切った行動に出たんだな」
「え? えぇ、あっ、あぁうん、そう、そうね。頑張ってる。頑張ってるから報酬の上乗せをお願いしたい」
「考えておく」
「へへっ、ありがとよ」
丁度そこへキャシーさんが戻って来た。容赦なくジェラルドさんのポニーテールを引っ張る。
「もうっ、早く行くわよ!」
「引っ張るな」
「ほらほら早く! こんなところで道草食ってたら仕事終わらないわよ」
「芋虫、追加! 追加の依頼っ……。あぁ、キャシー、やめろ引っ張らないでくれ……」
キャシーさんに引き摺られながらジェラルドさんは去っていった。去り際、何かメモ書きのようなものを落としていた。
メモを拾い上げて大和さんは内容を確認する。
「ふむ。了解了解」
「色んな人から色んな依頼を受けるんですね」
「それだけお兄さんが信用されているということだよアレクシス君。美しい俺が人々にちやほやされるのは当然さ。……それはさておき、君が帰ってきてくれて助かった。外に出られないかと思ったからな」
「あのぅ……。ここで何をしていたんですか。留守の家に勝手に入るなんて泥棒と同じですよ」
「驚くなよ少年……俺は……」
切れ長とぱっちりのいいとこどりをしている目が大きく見開かれた。口元には狂気的な笑みが浮かぶ。まさか本当に泥棒をしていたのだろうか。人の情報は好き勝手にしているけれど、犯罪を犯すような人ではないはずだ。否、ぼくは河平大和のことを全て知っているわけではない。ぼくの知らないところで盗みくらいやっているのかもしれない。悪い想像がどんどん広がっていくには十分すぎる悪人の顔である。
思わず後退したぼくは外れているドアに背中をぶつけてしまった。その衝撃でドアが傾く。
「俺は……」
「や、大和さん……」
「ドアが開いてるじゃねえかぁ、お邪魔します! って家に入ったらドアが閉まって出られなくなったんだよ! 虫かごに入れられた蝶の気分だった。最悪」
早口でそう言って、彼は頭を抱えながら頽れた。
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