二十四冊目 胡蝶

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【第百九十五面 アタシが受け止めてやるよ】 芋虫の話。  幼い頃、おどろおどろしい黒い龍を見た。母と弟の通り道を破壊し、そして、俺の右目を奪った龍である。当時はそれが何者なのか分からなかった。近隣に暮らす(ドミノ)も何人かが龍の姿を目撃していたそうだが、以降は情報が途絶えてしまった。チェスかバンダースナッチ類でも見間違えたのだろうと言って嘲笑を浮かべた人間(トランプ)達が酷く憎いと思った。あれが見間違いなわけがないのだ。あれがただのチェスならば、俺達がこれほどまでの被害を被るわけがないのに、なぜ信じてくれないのか。幼い俺は何もできずにただただ一人で憤ることしかできなかった。  昔話に伝わるジャバウォックかもしれない。その答えに辿り着いたものの、昔話の存在が実際にいるのだろうか。しばしば目撃報告が上がると聞くが、いずれも曖昧なもので確証は得られなかった。ジャバウォックなる者はこの国に潜んでいるのだろうか、それとも、昔話に過ぎないのだろうか。疑問を抱えたまま何年も過ぎて行った。  銀暦二五四四年、一昨年の夏のことである。第二王子のウィルフリッドが黒い龍に襲われた。昔話の龍は実在していたのだ。王子の様子を眺めていた俺は一部始終を目撃していた。早急に国の上層部に伝えるべきと判断し、クロンダイク公爵と懇意にしているユニコーンへ情報を流した。  あの時、大丈夫かと珍しく表情を変えたジェラルドが俺のことを心配そうに見ていたのを覚えている。オマエも負傷したのか、と。否、俺は少し離れていた場所にいたため怪我はしなかった。では、その血は何? 彼が指し示したのは俺の右目だった。前髪に血が付いている、と。王子が襲われた時、俺はないはずの右目に激痛を覚えた。痛みを押しながら、情報を伝えることだけを考えてジェラルドの元へ向かったのだ。指摘された瞬間、堪えていた痛みに俺は膝を着いた。  以降、ジャバウォックらしき化け物が何度も現れた。偶然近くに居合わせたことが数回あるが、その度に右目が痛んだ。  伝説の勇者である「アリス」の名を呼んでいるのを聞いたという証言を耳にしたことがある。アレが狙っているのは「アリス」なのだろうか。それとも……。  アレは鏡を破壊したのだ。アレが探しているのは鏡ではないのか?  分からない。分からなかった。  いつか自分が壊されてしまうのではないかという恐怖に震えながら、俺は誤魔化すように、落ち着かせるように、煙管を燻らせる。  紫煙が激しく揺れた。風が動いたのだ。そして、アレが現れる。  逃げ出せばいいのに、俺の足は、翅は、言うことを聞かない。なぜなら、これは夢だからである。自分の思い通りに体が動いてくれないというのは厄介なものだ。  黒い龍は俺の首に手を掛けた。夢の中では右目は痛くないんだよな……。  自分の頭が体とおさらばする感覚と音を全身で感じた。こんな夢、もう見たくないのに。           ○  名前を呼ぶ声に目を開けた。心臓が激しく脈打ち、呼吸は乱れている。全身汗びっしょりで、髪の毛はもちろん布団もシーツもべったりと体にくっ付いていた。 「ヤマト……」  女の手が俺の頬を撫でた。安心させようとしているらしい。俺はその手に自分の手を重ねる。 「おはよう、マーカラ……」 「おはよう……。アンタ、うなされてたよ。時々あるわよね……」 「オマエを見たら落ち着いたよ。今日もかわいい」  強引に体を起こし、マーカラのことを抱き寄せる。そのまま唇を重ねようとしたが、拒まれてしまった。突き飛ばされた俺はベッドに倒れる。 「口説いてる暇があったら体調整えな。そのままそこでしばらく横になって休んでなさい」 「怖い夢を見て震えるお兄さんにかける言葉にしてはちょっときつくねえか」 「……じゃあ、どうしてほしい?」  俺の羽織を肩に掛けているマーカラがこちらを見下ろす。  昨夜はいつものようにシュナプセンに来て、数多の客引きの間を潜り抜けていつもの店へ向かった。他の女の子からも多少情報を集めつつ、最終的にいつもの部屋でマーカラと語らった。血と金を代償に楽しい時間を過した。  いつも通りの夜だった。疲れてそのまま眠りに落ちた後、悪夢にうなされたこと以外は。 「優しく慰めてほしい。大丈夫だ、って抱き締めてほしい」  マーカラは小さく笑うと、ベッドの上に座って手を広げた。俺は体を起こし、彼女の胸元に顔を埋める。頭を撫で、背中をさすってくれる手に安心感を覚えた。  酷い夢から目覚めた朝は肉体的にも精神的にも弱り果ててしまう。動悸はまだ収まらないし、呼吸も整っていない。気を抜いたら涙まで溢れてきそうである。抱き締めてくれている彼女の背に腕を回すことすらままならない。薄い翅の付け根に添えようとした手は、きめ細やかな背を滑り落ちてしまった。 「ヤマト、これでいい?」 「……悪い、情けないところ見せちまって」 「ううん、いいの。アンタの弱い姿はアタシだけが知ってる。アタシの前では、全てを曝け出してくれていいのよ」 「はは、いつも曝け出してやってるだろ」 「うん、そう。それでいいのよ。アンタの悦びも、怒りも、悲しみも、恐怖も、アタシが受け止めてやるよ。それがアタシらの仕事だからね」 「仕事……」  マーカラは俺を抱き締めたまま頷く。 「そうか、仕事か……」 「そうよ。なあに? かわいそうだなんて思わないでちょうだいね。楽しいからやってるのよ」 「マーカラ……」 「ん?」  俺はマーカラから体を離す。名残惜しそうに引っ込められた細腕には青く光る鱗粉が付着していた。  俺の首筋に残る傷も、彼女の体やシーツに散らばっている鱗粉も、昨晩の余韻を感じさせた。俺は情報を得るためにここを訪れている。すなわち仕事の一環である。マーカラが俺の血と快楽を求めるのも、それが彼女の仕事だからだ。俺達はただ、互いの仕事をしているだけだ。 「俺はオマエが好きだよ」 「お客はみんなそう言うよ」  マーカラはからからと笑って、ぶかぶかの羽織を脱いだ。そっと俺の肩に羽織を掛け、頬にキスをしてからベッドを降りる。 「もう朝だし、それに、弱ってるアンタの血を吸うつもりはないよ。部屋の使用料に関しては追加料金は取らないから落ち着くまでそこで寝てていいよ。あっ、朝になっちゃったから宿泊料はもらうからね。店長には言っておくから、ゆっくり休んで」 「度々迷惑を掛けて申し訳ないと店長に伝えておいてくれ」 「了解。それじゃ、アタシはシャワー浴びたらそのまま上がるからねー。ばいばい。お休み」  着替えを手に浴室のドアを開ける。彼女の姿が湯気の向こうに消えたのを確認してから、俺はベッドに横になった。羽織にマーカラの体温が残っている。  正常な速さを取り戻しつつある鼓動を感じながら、深呼吸をする。  たかが悪夢にうなされた程度で部屋に残ることが許されるのは、俺がこの店の上客だからである。最初はいい顔をされなかったが、従業員を全員落として大量の金を支払い続けた結果、店長や支配人からも丁重に扱われるようになった。  シャワーの水音が微かに聞こえる。落ち着いたら、俺も汗を流して帰ろう……。  ドアを激しくノックする音に俺は起き上がった。店長の声が聞こえる。 「カワヒラさん、もうお昼ですよ! さすがにそろそろお帰りいただかないと! 今夜の営業のために店内の掃除をしないといけないので!」 「お昼……?」  枕元に放り出されている懐中時計を確認すると、短針が十二を少し過ぎたところだった。昼食はおろか朝食も摂取していない腹が弱々しく鳴く。 「寝過ぎた……。腹減った……」 「マーカラちゃんが帰る前に声かけたけどぐっすりだった、って言ってましたよ。カワヒラさんは大事なお客様ですしVIPルーム常連ですけど、僕達にも都合というものがありますからねえ。ええ、ええ。さすがにこれ以上お部屋にいられるとちょっと困ります! お昼ですよ! ドア開けますよ!」 「すっ、すみませんシャワーだけ使わせてください。すぐ出ます。すぐ帰りますから!」  さっさとしてくださいね、と店長は言う。そして、足音が遠退いて行った。迷惑をかけすぎるとVIPから陥落させられるかもしれないので気を付けなければならない。俺が上客だからこそ、従業員も店長も支配人も、情報屋などという危険な仕事を生業とする者のことを見て見ぬふりをしてくれているのだ。  あらゆる情報を集めあらゆる情報を売りさばくのだから敵は多くなる。この蝶が情報屋なのだと言いふらしてしまえば俺のことを警察などに売ることができるし、言いふらしたやつはその謝礼を得ることができる。その際、情報元が罪に問われる可能性はかなり低いと思われる。俺はあくまで、嫌がる女を屈服させ、脅して情報を巻き上げているのだから。  しかし、彼ら彼女らは上客の俺を売ることはできない。お得意さんと店の関係性を悪くしたくないという意識が働く上に、ここがシュナプセンの店だからだ。シュナプセン大通りには通常の飲食店も数多く軒を連ねているものの、非合法な店もそれなりに存在している。暗黙の了解の元存在しているそれらの店に頻繁に出入りしている情報屋のことを警察に突き出せば、店も無事ではないだろう。俺達は危険な橋を共に渡る運命共同体だ。一応店側は普通の店を装う手段を持っているため、俺だけを切り離すことは可能である。そこで働くのが大事な大事なお得意さんと店という関係性なのだ。この状態に至るまで数多くの苦労があった。過去の俺はよくやったと思う。オマエのお陰で俺は仕事が捗っているよ。  シャワーを浴びながら、俺は壁に取り付けられている鏡を見る。部屋中に散乱していた鱗粉の量を考えると、マーカラが立ち去ってから爆睡してしまったのは蛹状態と化していたのが原因だ。今はもうすっかり元通りの美しい翅に戻っている。青い地の上を水滴が滑り落ちていた。顔にも疲れは残っていない。今日も俺は美しい。綺麗だよ、大和。左半分は。  タオルを頭から被って水分を拭いつつ、鏡に近付いて右目に指を這わせる。灰色の虹彩は何の感情も映さずにまっすぐ真正面を見据えている。大丈夫、ずれてない。 「よし……」  今日はどこで何を聞いてこようかな。飛んでいく道筋を考えながら、俺は襦袢に袖を通した。
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