二十四冊目 胡蝶

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【第百九十六面 可能ならば】 かぐや姫の話。  きょうだいが生まれるよ。両親のその言葉に僕は快哉した。直後に自身の出自に関して強烈な衝撃を受けるのだが、それでもきょうだいが生まれることへの喜びが消えることはなかった。  早く会いたいな。と来るべき時を鶴首して待った。  そうして、妹が誕生した。小さくて、弱々しくて、壊れてしまいそうだった。自分は今日から彼女の「お兄ちゃん」なのだ。自分というものに若干の迷いを覚えていた伊織少年に大きな大きな責任感が生まれた瞬間である。  血は繋がっていないけれど、僕はつぐみちゃんの「お兄ちゃん」だ。           ○ 「若旦那、荷物が届いてましたよ。アトリエの前に置いてあります」 「ありがとうございます」  勝手口から入り、作業場の近くを通りかかった際に職人さんから声を掛けられた。注文していた材料が届いたのだろう。新作の人形に使用するため、布や糸をいくつか頼んでいたのだ。 「若旦那もそろそろ節句人形を作ってみないか」 「いやいや、若旦那は西洋人形を極めたいんだよ」 「まだ若いんだし、本人のやりたいことをやらせてあげないと……」  職人さん達の声を聞き流しながらアトリエへ向かう。届いた材料を確認した後、今買って来た他の材料と並べて組み合わせを吟味しよう。いきつけの手芸店オリジナルのエコバッグを左手にぶら下げ、右手で段ボール箱に手を伸ばす。  世界が暗転したのはその直後だった。 「ただい……ぎゃああお兄ちゃん!」 「おはよう、つぐみちゃん……」  段ボール箱を抱擁する形で眠っていたようである。傍らにエコバッグが転がっている。  視界の端でスカートの裾が揺れた。星夜中学校の制服である。アトリエの前で眠りこける僕を発見した妹は若干狼狽した様子だ。幾度となく突然の睡魔に倒れ伏す兄のことを目撃しているものの、帰宅して早々に邂逅すれば悲鳴の一つも出るのだろう。  妹の他にもう一人分足が見えた。こちらも星夜中学校の制服だが、スカートではなくズボンだ。 「伊織さん、大丈夫ですか」  神山君だ。先日妹を通して暇な時間を伝えておいたのだ。どうやら彼が選んだのは今日だったようだ。彼が寺園家に来訪したということは、そういうことである。今日は何を話してくれるのだろうか。期待と不安が入り混じると同時に、今日も頭痛に苦悶させられるのかと思うと憂鬱だった。体も心も痛めずに記憶を掘り起こすことが可能であればよかったのにと何度思ったことか。  僕はエコバッグを段ボール箱の上に載せ、荷物を纏めて持ち上げる。 「眠っていただけ。なんともないよ」 「笑ってごまかさないでね、お兄ちゃん」 「……いつもの前兆だと思う」 「分かった。わたしがぐーぐー寝てても、気にせずに起こしてね」 「うん。いつもありがとうね、つぐみちゃん」  ここ数日、倒れる頻度が増加傾向にあった。すなわち、近いうちにあの朝がやって来る。寝苦しさに目覚め鏡台に歩み寄ると、己の背に青い光を散らす蝶の翅が生えている、あの朝が。 「アトリエ、ちょっと片付けるから待ってて」  段ボール箱を抱えてドアを押し開け、アトリエに入った。子供(にんぎょう)達は(ぼく)の帰還を歓喜と共に出迎えてくれる。寒いところで待機させてしまい悪いことをしていると常々思うが、暖房を点けっぱなしにして外出してもしものことがあっては困るのだ。壁際に歩み寄りストーブを点けると、凍えていた人形(こども)達が安堵したように見えた。  作業机に荷物を置き、散乱している材料を部屋の隅に寄せる。そして、丸めてある小ぶりのラグを広げる。このアトリエに椅子は一つしかない。客人には基本的に床に座ってもらうことになるのだが、冷えた床に直に座らせるわけにはいかないだろう。 「こんなもんかな……」  脱いだコートを畳み、僕はドアを開けた。  神山君はある程度話し終えると、僕の様子を窺うように視線を向けてきた。 「やっぱり会ってみたい、ですか……?」 「ん……」  神山君にはこれまで何度か話を聞かされた。ヤマトが僕の双子の兄弟であるということ。彼も人間ではないということ。彼が住んでいる場所は遠く離れた地であること。そこには危険な部分もあるということ。そして、彼は、ヤマトは僕が今の家族と幸せに暮らしていることを喜ばしく思っているということ。  会わせてあげたいと妹は言う。どちらの答えでも自分はそれを伝えに行くと神山君は言う。ヤマトは僕に任せると言っているそうだ。  今日新たに神山君が持ってきたのは、実の父が僕の生存を聞いて大いに驚喜したという話である。 「お兄ちゃん、お父さんとお兄さんに元気な姿を見せてあげようよ」 「……僕は」  自分はどうしたいのだろうか。  時折、記憶の片隅に微かに残る森の景色に向かって手を伸ばすことがあった。帰りたいのか、帰りたくないのか。月を見る度に悲しくなる。さながら僕はかぐや姫である。  夢に現れる顔も声も分からないヤマトに、いつだって縋り付いた。大切な人だった。忘れてはいけないのに忘れてしまった。思い出さなければならないのに思い出せなかった。彼を含む記憶を回顧しようとすると、それを妨害するかのように頭が酷く痛んだ。  急に思い出そうとするから痛くなるのだ。神山君から少しずつ話を聞くことで、ヤマトのことを知ることができた。今のところ痛みも最小限に抑えられている。  会うことができるのならば、一度顔を合わせてみてもいいのかもしれない。 「可能ならば……」  そこまで言ったところで、刺すような痛みが頭に走った。刺された何かをそのままぐりぐりと弄られているような強烈な痛みである。視界に星が散り、僕の体は己を支える仕事を放棄した。 「……あ」 「お兄ちゃんっ」  思考が停止した。分からない。分からない。何も分からない。思い浮かぶのは鬱蒼とした森。どこまでも続く森。森。森。森。獣道を並んで歩いた。いつも一緒だった。手を繋いで一緒に。ヤマト。恐ろしい化け物。化け物が全て壊してしまう。嫌。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌。手が離れてしまう。嫌だ。一緒に。一緒に行こう。嫌だ。化け物が来る。化け物。駄目だ。ヤマト。ヤマト。大和、僕の……お兄、ちゃん……。  妹が僕を呼んでいる。その声が徐々に遠退いて行った。 「大和っ!」  自分の叫び声で目が覚めた。天井に向かって伸ばしている腕をゆっくりと下ろす。 「アトリエじゃない……。僕の、部屋……? いてて……」  痛みの残る頭を押さえて起き上がる。額に冷却シートが貼られているらしく、指の先に微かにシートが触れた。どうやら僕は発熱しているようだった。  ベッドの端で何かが動いたのでそちらを見遣ると、妹が突っ伏して眠っていた。手には体温計を握りしめている。傍にいてくれたのだろう。髪をそっと撫でてやると、彼女は小さく「お兄ちゃん」と呟いた。  窓の外は既に日没を迎え宵闇の色に染め上げられている。枕元の目覚まし時計は現在の時刻が午後七時を回っていることを告げていた。妹が神山君を連れて帰宅したのは四時頃である。あの後倒れて、二時間以上眠っていたようだ。もう神山君は帰ってしまっただろう。話の続きはまた後日になりそうである。  寝起きだからなのか、頭痛の残滓なのか、それとも熱があるからなのか、ぼんやりとした状態のまま僕はベッドから下りた。妹を起こさないようにゆっくりと床に足を下ろし、ドアに手を掛ける。  髪を簪で纏めながら居間へ向かうと、両親が目を丸くしてこちらを見た。テーブルの上には二人分の夕食が用意されている。今晩の献立(メニュー)はカレーライスだ。 「伊織君、起きたのね。今様子を見に行こうとしていたところ。具合はどう?」 「少しぼーっとするけど、大丈夫だよ」 「つぐみちゃんは?」 「寝てるみたい。声はかけなかったよ。……えっと、ごめんなさい。心配かけて……」  母は軽く背伸びをして僕の額を冷却シート越しにこつんと叩いた。 「子供が親に心配かけるのは当然。伊織君は自分のこと大人だと思ってるかもしれないけど、お母さんにとってはまだまだ子供なんだから」 「そうだぞ伊織。たまには一人で抱え込まずに父さん達に甘えなさい」 「元気そうだけど、お粥さんもう作っちゃったから伊織君お粥でいいかな。カレーはちょっときついかと思って」 「うん、ありがとう」 「じゃあつぐみちゃんも呼んでくるね」  僕は廊下に出て行こうとする母の腕を掴んだ。振り向いた母は先程にも増して目を丸くしている。 「待って。待って、ください……。父さんと母さんに話があります」 「どうした、改まって」 「ご飯、冷めちゃうかもしれないけど……今、話しておきたくて」  スプーンをカレーライスに突っ込もうとしていた父は手を止めた。僕は母から手を離し、居間で最も注目を集めやすいテレビの前に立つ。  寺園夫妻は僕の両親である。身元不明の捨て子だった僕を引き取り、実の子供であるかのように育ててくれた。何も覚えていない僕にとっては本当の親だった。血が繋がっていないと分かった時にはいささか微妙な空気が流れたものの、すぐに元通りになった。僕は二人の息子である。自分にあるのはこの家の思い出だけだった。二人は、僕の大切な両親だ。二人にとっての本当の子供である妹が生まれてからも、変わらずに僕のことを愛し、育ててくれた。大事な父と母。  だからこそ、言わねばならない。 「家族……。家族が、見付かった……。見付かったんだ、僕の、元の家族が……。不慮の事故で離ればなれになっていたって。僕が生きていることが分かって嬉しいって」  どんな顔をされるのだろう。不安に駆られテーブルの上のカレーライスを凝視していた僕は、意を決して顔を上げる。  両親はこちらを見ていた。とても優しい表情をしている。 「そうか。そうか、よかったな」 「よかったね、伊織君」  理由は分からなかったけれど、僕の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちた。止まらない涙を拭いながら、年甲斐もなく声を上げて泣いた。
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